megamouthの葬列

長い旅路の終わり

閉店のお知らせ

いつもご愛顧いただき、ありがとうございます。
このたびmegamouthの葬列は、
2018年1月27日をもちまして、閉店することとなりました。
これまでの皆様からのご支援、心より感謝申し上げます。

*

過去ログまで全部消すバカがあるかっというお声をいただき、自分としては、私のことなどさっさと忘れてしまったほうが人生を豊かに過ごせると思うのですけど、私のほうでもだんだんと未練が募り、まだもうちょっと、やり残した事を追加して、「megamouth追慕文集」として、当サイトを再編したものを作ろうかな、とか考え始めたのですが、同時にはてな記法をHTMLに直したりCSS書いたりする面倒を思い出し、やっぱやめた。となったところで、株主とも相談した結果、折衷案として、更新停止という措置を取ることといたしました。

あと、はてなProの更新代云々については半ば冗談というか、課金関連で、ちょっとはてな運営にムカつく出来事があったので、更新しないつもりです。どうせアフィなんて誰も踏まえねえし、それもまあいっかという。

そんな感じで、放置しますが、
zebraexの遍歴
については、はてなProのマルチブログ機能の消失に伴い、あと数日で消えちゃうので、心残りがある方は、アーカイブでもなんでもとっといてください。

以上。megamouth享年38歳でした。

※2018/01/31 追記
諸般の事情で、Proの期間を1ヶ月だけ伸ばしたので、2018/03/02まではPro版です。なので、zebraexの遍歴もそれまでは続くんじゃ。(っていうかPro版消えたら、サブブログってどういう扱いになるんですかね。やっぱり消える?)

鬱病で貧乏でキモいおっさんエンジニア

本当に書きたいものがあるし、書いているのだが、いつまでたっても納得がいかず、掲載出来ないので、今回も一発書きである。
毎度、言い訳から始まって申し訳ないと思うのだが、たまには愚痴を吐かせて欲しい。ダメだと言われても書くのだけど。

私はこのブログで、技術論、テクノロジーの話題をできるだけ避けている。そういうブログは掃いて捨てるほどあるし、本当に有益なものが読みたければ、もっとマシな選択肢があるからだ。

だが、この態度は同時に私が「どの程度」のエンジニアなのか、という情報を隠すことになってしまっている。しかし、それは本意ではない。

この際だから正直に言っておこう。私の実力は、Linus Torvaldsがゴッドハンドだとすれば、イシドロぐらいだ(弱くね?)深津貴之が範馬勇次郎だとすれば、鎬昴昇ぐらいである(弱くね?)伊藤直也がCTOだとすれば、インフラ部隊の万年平社員ぐらいである(比喩になっているのか?)

まあそんなわけであるが、経験だけは無駄にあるので、サーバートラブルが発生しても平均30分で原因を特定するぐらいのことはできるし、業界3年目ぐらいの小僧が書いたプログラムのバグぐらいは簡単に直せる。

これを聞いて羨ましく思う読者がいるかもしれないが、私は、この業界に20年近くいるのだ。
このぐらい出来て当たり前だし、逆に言えば、20年もいて、その程度なら辞めたほうがいいよ、というレベルである。

才能的には、本来、講師にでもなって、若手の初等教育でも担うべきなのかもしれない。正直、身の振り方としてはそれぐらいしか、もう思いつかない。

*

だが、私にはそれができない根本的な問題があって、それは私が、貧乏でキモいおっさんだけではなく、鬱病でもあるということだ。

鬱病について、とやかく書く気はない。パキシルが切れた時に頭に走るあの独特の感覚とか、自殺念慮の辛さとか、そういうのも書こうと思えばいくらでも書けるが、他のブログに山ほど書いてあるので、書かない。

ここで書いておきたい「問題」というのは、鬱病というのが「勤勉さ」というものを根こそぎ奪い取ってしまう病気だということだ。

読者諸氏は、毎日定時に出社しているだろうか?そうでもないです、とかうちはフレックスです、といっても、熱中すれば一日9時間ぐらいプログラムを書くぐらいは訳はないだろう。実際、以前の私がそうだったからだ。

だが、今は違う。朝起きた瞬間に、その日の行動が決まってしまう。
例えその日が納期であろうと、絶対にやらなくてはならない仕事が残っていようと、目覚めた時に、体が起き上がらなければ、もうそれは無理なことなのだ。

こう割り切るまではしばらく時間が必要だった。先日、~/orgフォルダを眺めていたら、中々おもしろい文章があったので、丸々載せる。
読みにくい文章なので、飛ばし飛ばし読むのがコツである。

狂人と傘

意欲の減退という言葉が(患者個人の内面の問題ではなく)単なる外形的な観察によって定義づけられている用語にすぎない、という事実に気づくには、しばらく時間が必要だった。

私は相変わらず焦りすら感じない怠惰と夢うつつの中にいた。

様々な抗鬱剤が処方されたが、経過観察ですら無駄だと感じるような物を除くと最終的なカクテルはパキシルリフレックス、ノーマルンとなった。

これらの薬剤が選定された理由も(効能といえる基準ですらなく)単純に「眠くなる」といった私の自己申告によるものだったように思う。
確かに、このカクテルで夜はグッスリと眠れるのだから、効果はある、という判断は、まさに理系の頂点にある医師らしい演繹の結果には違いなかった。

とはいえ、不安で眠れないことなど生涯においてただ一度も経験していない私にとっては、その論理は主治医本人の願望を補強しているだけに思われた。

普通なら主治医が信じられない、とでも思うところなのかもしれない。
しかし、私は彼のこの愚直なまでの薬剤信仰をむしろ微笑ましく思っていたので、それを改めさせる気など毛頭なかった。

他に何がある?鍼灸にでも通って、やはり毎日の体調の変化を事細かに説明し、ああそれはここに鍼を打ったせいですよ。では今日はここを。
患者は笑顔でうなづき、やはり西洋医学はいけません。根治治療は東洋に限りますと微笑み合えばいいというのか。

信仰する神は一つで十分だ。ならばもっとも通りで叫ばれている名を一緒になって叫べばいい。

そうあれかし。


いつしか、私と主治医との間には不思議な共犯関係のようなものができあがりつつあった。患者と医師の信頼関係というものがこれと同一なのかは確信がないが。

相変わらず、私が働けないという事実に目をつむれば、これはある意味平和な時間であるとも言えるのだ。

*

多分これ、10年近く前の文章だと思うのだが、この頃に比べると素直になったなあ、と感じる。
読者は私の文章修行の成果に少しは感謝すべきだが、まあそれはどうでもいい。

話を戻す。

「勤勉さ」とは、社会がその構成員に求める、最低限の、そして必須の素養である。

どれだけ会社の利益に貢献していなかろうと、一度正社員になった以上、皆勤賞の社員を解雇することはできない。(やるところはやるだろうが、それも訴訟リスクなど多大なコストを支払わなければならない)

また、毎日、何かをする、できる、ということはそれだけで大変な価値がある。

それが出来ていない私が、postfixの設定を熟知していたり、最近のフレームワークアーキテクチャをまがりなりにも理解できているのだから、勤勉さを身に着けている君たちにおいては、何をか言わんや、というところだ。

*

勤勉さを失って、立ち止まっている私に見えているものがある。

君たちは「勤勉」という事は、ただ、一歩一歩、進んでいるかのように考えているのかもしれない。

そうではない。君たちは少しずつ「加速」しているのだ。

例えそれが、数m/日の加速度であろうが、10年後には、いちいち歩みを止めなければならない私と彼我の差を生んでいることだろう。

それを自覚してほしい。

そして、くれぐれも、それを失わないよう、何を犠牲にしてでも自身の健康は守るべきだ。

それができれば、私のようにはてなProの更新料が払えないという事態に陥ることはないのである。(オチ

今日書きたいことはそれくらいです(パクリ


喧嘩乗り場

あまり、ネット時事評論的なことをしたくはないのだが、最近見ているRSSフィードの内容がどれもつまらないので、辟易している。

そういった中で目立つのが、twitter上の議論とかそれをまとめたサイトである。

韓国のアレとか、年末の黒塗りのアレとか、安倍首相がどうとか、朝日新聞がどうとか、といったもので、読者がそれらをどのようなスタンスで見ているかは知らないが、私の政治的スタンスである「やる気のないアナーキスト」から見ると、全部どうでもいい、と言った感想になってしまうのである。
(あらかじめ断っておくがこれで気を悪くされた読者と議論する気はないし、そもそも議論にならないのでやめたほうが良い。なにしろ「やる気のないアナーキスト」という奴には何も主張はないし、あったとしても、自分が知らないうちに隕石でも落ちて、すべてが真っ平らになって、自分を含めた全員が無に帰すのが一番いいと思っているのだから)

なので、私のローカルブックマークは増えることなく、相変わらず、twitterやタイムラインの東では喧々諤々の議論が行われている。

右と左に限らず、両陣営は自身の主張と論理の体系化に忙しく、少しでもその体系にひっかかった者がいれば(わかりやすく言えば、議論で叩き潰せそうなカモを発見すれば)、何か自動的なツールでもあるのだろうか、という速度でリプライが飛んでくることになる。

彼ら自身がどう思っているかは知らないが、彼らの目的は、相手を完膚なき論理で反論できない状況に追いやり、一方的に勝利宣言を上げ、溜飲を下げることにある。
それが彼らにとっての闘争であり、正義であり、また勝利だからだ。

だが、敵もさるもの、同じような攻性の体系化は吹っかけられた側にもあり、この手の議論は終わることはない。そもそもそういったものを「議論」と呼ぶべきではないのだった。それは「闘争」という名の罵り合いであり、レッテル貼りにすぎなく、出口というものがないからだ。


かつて喫茶店では宗教と政治の話はするな、と言われた。誰が聞いているかわからないし、目の前の当人が何らかの「体系化」した論理を持っている可能性があったからだ。

たとえば、黒塗りの話をするにしても、

「なんか年末の黒塗りメイク、ごっつ問題になっているらしいですね」
「らしいね」
「ワロうてしまいましたけど」
「ワロうてしもたらアカンねんやろうけどな。今は。」
「そうなんでしょうね」
「昔はアダモちゃんとかやってたけどな」
「あれも今はアウトでしょうね」

というところで、上司はスポーツ新聞を畳んで、ようやくやってきたナポリタンにタバスコをかけていたろう。

これを日本人の均質性という言葉で片付けてもいいし、「議論」を嫌う気質であると言い換えてもいいだろう。

例を出しておいて悪いのだが、別に筆者はこのような古き良き会話が良いというつもりもない。何もしなくても自民党社会党(とアメリカ)が世の中をなんとかしてくれた時代ではないのだから、こういうのもどうか、とは思う。

だが、twitterという場所が、どうにも議論と言うには稚拙な罵り合いと、ヒステリックな集団通報でのアカウント凍結戦争の場になったのは少し残念でもある。

そこではかつて、整然と日常会話が行われ、時には穏やかな議論が行われ、きちんとケチャップ味のナポリタンが出されていたのだ。


そういった場所が完全に失われたわけではないにしろ、どうせ見せてもらえるなら、そうしたもう少し身になる「議論」を見せてもらいたいと思うのは贅沢だろうか。

別に私は地下格闘技上で行われるヒステリックで、数に頼った、審判すら不在な残虐インファイトを見たいという気持ちはないのだ。

しかしそれも望み薄というものだろう。

私はかつて、「システムはコミュニティの思想的な質に影響を与える」と言ったことがある。

2chネトウヨの巣窟になったのも、現在のtwitterが「喧嘩乗り場」になったのも、少なからず、メンションとかリプライとかそのあたりのシステムが関係している。

結局のところ「議論」というものが難しいのだ。
朝まで生でする某番組の「議論」もひどいものだが、あの程度の議論ですら、システム化することは不可能だろうし、できたとしても誰も使おうとしないだろう。ユーザーへの要求が過大すぎるからだ。

なので、こういった傾向は続く。世の中が不毛でなかった事がないように、twitterのような『喧嘩乗り場」がなくなることもないのだ。

ところで、


という重要なツイートをしたのだが地政学クラスタの反応がまるでない。
フロリダ沖のバミューダトライアングルの中心に、核配備された独立国(しかもミラージュⅢなど、欧州系の武器輸入まで行われている)が存在する、という事実は、北朝鮮問題以上に深刻だと思うのだが。

有識者の意見を求めたい。


パタリロ! 41 (白泉社文庫)

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