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megamouthの葬列

長い旅路の終わり

空(くう)について

定点

何かの原因で社会から追い出されると、もはや周りには何もなく、それまでやってきた事や記憶を頼りに暗闇を漂うよう事になる。

当人としては、そうなっても「過去」がか細い糸となって、辛うじて社会につながっているし、「能力」という金銭でしか表現できようのないものを頼りにして、自分はこの社会では○○円だと、いう意味で存在を許されている気になって平静を保っているようだ。

だが、実際の所、過去は覚束ない記憶でしかなく、当人以外の誰かに彼の名前を尋ねたら、辛うじて思い出す程度の縁でしかないし、能力に至っては単に求人マーケティングの甘い囁きでしかない。

彼は実質的には空(くう)になりつつある存在である、やがて突然存在が消滅したとしても、ごく限れた人間が首を傾げる程度の影響しか世間には与えないだろう。山奥でどこかの木が急に全てが嫌になって倒れたところで、誰も困らないのと同じだ。

だからといって、死ぬわけにはいかないのが困ったところだ。

これは、思考が存在を規定しているという厄介な人間の性質によるものだ。残念ながら人間は思考しているから存在をやめることはできないし、かといって思考を完全に止めることもできないのだ。

自殺は思考の終わりを意味しなく、極限の存在主張である。彼らは得てして空を目指すが、その果ては実際には思考の極限がある。何故なら自分以外がその思考に存在しないならば、もはや自分のことだけを考えれば良くなるからだ。

仏教、哲学的な演繹はこのように生まれ出たようにも思う。

であれば、側女として空を置くこともそう悪いことではないのかもしれない。それが死に直結したとしても。

最近そう考えることが増えた。