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megamouthの葬列

長い旅路の終わり

302号室の住人

デザイナーの山内さんが独立したのは3年前のことだった。

「さっそくデザイン事務所を借りようと思いましてね。都内でオフィスを探したんですよ」
ひとまず一人用のこじんまりとしたオフィスでも、というつもりだったが、
都内、という条件では家賃も保証金も予算オーバーで、手頃な物件はなかなか見つからなかった。

そんな時、知り合いの不動産屋から、あるオフィスビルの3階の部屋を紹介された。

「信じられないほど安かったんです」

広さはやや物足りなかったものの、交通の便は悪くなく、最初の開業場所としてはうってつけだったそうだ。
不動産屋と内覧する時、隣のオフィスの扉を見たが磨りガラスに「302」という数字が書かれている以外何の看板もない。
空き部屋のようだった。

「ちょっと、欲が出まして。同じ家賃なら隣の空きオフィスも一緒に貸りられないか?と言ってみたんです」
提案はにべもなく断られた。隣は空き部屋ではなく、オーナーの知り合いが借りている。とのことだった。


オフィスに入居して、しばらくたった頃、山内さんは翌日のコンペに出すデザインがまとまらず、終電を逃した。
作業自体は午前3時頃に終わったが、「このままオフィスに泊まるしかないな、と思って夜食を買いに行ったんです」

ビニール袋を下げて、部屋に戻る途中、ふと302号室を見た。ドアについている磨りガラスの向こうに電球色の明かりがついていた。

「あれ?と思いました。昼間はだれもいなかったと思うんですけどね。こんな時間に誰かいるんだなって。」
もしかしたら住居代わりにしてるのかもしれない。山内さんは深くは考えなかった。


部屋で仮眠を取った山内さんは、朝の5時に起きた。
ビルの一階で煙草を吸っていると、ビル清掃のおばさんがやってきた。
「昨日遅かったのかい?大変だね」
と、おばさんは山内さんの目についたクマを見て笑った。
「そういえば、302号室。誰か住んでるみたいですね」
と山内さんは言った。
おばさんは少し首をかしげたが、「ああ、そうだね。夜に帰ってくるみたいだよ」と掃除しながら答えた。
「まだ挨拶してないんですけど、いつ頃帰ってこられるか知ってます?」
おばさんの背中に尋ねた。
「知らないねー。…挨拶はしなくていいよ。オーナーの知り合いだからね。」
おばさんは振り返らずに言った。


コンペに落選した。山内さんは独立して最初の大きな仕事を逃した。

「何故か家に帰る気になれなくて。コンビニで酒を買ってオフィスで飲んでたんですよ」
悔しさ、力不足、運の無さ、一人で色々な考えを巡らすうちに山内さんはすっかり悪酔いしてしまった。

「気がついたら酒が空になっていました。」
買い足しにいくか、と山内さんは立ち上がった。その時、隣から妙な音がするのに気づいた。
それはボソボソ…と、誰かが何かを話し合っているように聞こえた。

山内さんは廊下に出た。前のように302号室には明かりがついていた。
ボソボソとした声は、よりはっきりと聞こえてくる。やはり誰かがいるようだ。

「酒で、気が大きくなってたんでしょうね。いったい何をやってるのか気になって」
山内さんはドアをノックした。声が止まった。

「隣に越してきた山内という者です。夜分にすいません。」
言ってみたが、返事はない。

ガチャリと唐突にドアが内側から開いた。山内さんはドアの隙間から部屋の中を伺ってみた。

部屋の中には誰もいなかった。
裸電球が照らす室内の中央に事務机が置かれてあり、そこに食事の用意がしてあった。
まるで、さっき置かれたようで、味噌汁からはまだ湯気がたっていた。

山内さんはドアを静かに開けた。廊下の蛍光灯がスゥと部屋の中に差し込んだ。
部屋の奥にある油絵が浮かび上がった。

真っ黒に塗りつぶされたキャンバスだった。

悪寒がした。
山内さんはドアを閉めると、そのまま階段を降りて、ビルを出て、開いている居酒屋に飛び込んだ。
「とにかく、人のいるところにいたかったんですよ」

そこで夜を越した。

そのビルにはしばらくいたんですか?と私は尋ねた。
「いや半年ぐらいですね。それからしばらくして、契約更新を断られてしまって」

302号室には?
「行ってないですね。中も見てないです」

山内さんが見たのは真っ黒な「絵」だった。だがその時、何故かこうも感じたという。

「有名な絵画とかを美術館で見ると、立体的に見える時があるじゃないですか。あんな感じで、
あの絵の『奥』が見えたんですよ」

絵の奥?

「無数の人影がうごめいて、真っ黒になっているんです。あれはそういう絵ですよ」

山内さんはデザイナーを辞めて、今は実家の家業の手伝いをしている。


隣之怪 第三夜 病の間 (角川文庫)

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