megamouthの葬列

長い旅路の終わり

司祭としての医師

以下に、人の死について、非常に生々しい話を書く。
なので、直近に肉親を亡くされた方や苦手な方はご遠慮いただきたい。


news.livedoor.com

というネットニュースを見た。
そもそも私はくわばたりえが好きではなく、それは彼女が仕事として代弁しようとしている層と、彼女がわざわざ着目するある種の醜悪な人間性に我慢ならないからで、大抵の場合、私はTVで彼女を見かけるとチャンネルを変えてしまう。だが、それは本稿の主題ではないので、さておく。


このニュースを見て思い出したことがある。父を看取った時の事だ。

父が倒れた、という電話を受けた時、私は会社で仕事をしている最中だった。
私は、上司に事情を伝え、タクシーに飛び乗ると、自宅に向かった。

父は以前から心臓を悪くしており、その少し前からベッドからほとんど動かないような生活をしていたので、タクシーの中の私は半ば覚悟をし、半ば今回もなんとかなるのではないか、という気持ちであった。

自宅に戻ると、誰もいなかった。
両親が飼っていた猫が所在なげにソファーに座っている。

書き置きも何もなかったので、待つより他にない。
しばらくすると、閉まっている玄関のドアが大きな風に当てられたように、ドン、と音をたてた。
猫が身を起こしてニャーと鳴いた。

私は、何故か父が戻ってきたのだ、という気になった。
その時電話がかかってきた。

電話は叔父からで、父が救急搬送された病院を私に伝えた。


案内された病室では、男性の看護師が懸命に裸の父に心臓マッサージをほどこしていた。
母は狂乱状態にあり、冷たくなっていく父の体をさすり続けていた。

初老の主治医が渋い顔をして、心電図を見ている。
看護師が心臓マッサージをするたびに、それはピッという電子音を発して、心拍を知らせるが、看護師が少し手を休めると、音は消え、心電図の線は残酷な平坦を描くのであった。

主治医が時々、看護師に命じて、電気ショックを与える。

その瞬間も心電図は多少の反応を見せる。しかし、心拍は除々に消えていく。
疲労困憊した看護師に代わって、他の看護師が父に覆いかぶさって心臓マッサージをする。

主治医は母に向かって静かに言った。
「もう既に、心肺停止からかなり時間が経過しています。もし心拍が戻っても、何らかの脳障害が残る可能性が高いでしょう」

母はまるでそんな言葉を聞かなかったように、父の体をさすり続けている。
そうしていれば、やがて父の体が復活し、けだるそうな顔をして目覚めるのだ、と期待しているような、いやそれを確信するように自身を追い詰めているように私には思えた。

私は、父の足先に触れた。それはひどく冷たく、もはや父の体の一部ではないように感じられた。
唯一伝わってくる生きた振動は、父にまたがって汗だくになって心臓マッサージを行っている看護師によるものだった。

私は主治医に言った。
「今までの施術で、心拍が自律的に戻ったことはあるでしょうか?」
もし、そうであれば、この施術にも多少の意味はあることになる。望みと言い換えてもいいかもしれない。

「いえ。搬送された時点から、自律的な心臓の拍動は見られません」
と主治医はきっぱりと言った。

看護師の荒い息遣い、その度に反応する電子音、母の悲痛な声だけが病室の中を漂っている中、主治医は、諦めるでもなく、何らかの決心をうながそうとするでもなく、ただ静かに、父と私達家族を見据えていた。

ああ、なるほど、彼は司祭なのだ。

私は思った。

こうして心臓マッサージや電気ショックを繰り返すことで、父の心臓は動く。そういう意味で、父は死んではいない。
しかしそれをやめれば、心電図は残酷なフラットラインを描き、父の死は確定する。
だが、死が確定していないからといって、父が生きている、ということでもないのだ。

患者の生と死の狭間に主治医は立っている。
いや彼の専門的な経験知の中では、父が既に死の領域に入っているのは明白なのだろう。

だからこうして、私達が父の死を受け入れるのを、施術を止めてもいい、と言い出すのをじっと待っているのだ。

主治医の目は静かだった。哀れみがあるわけでもなく、悔しさがあるわけでもなく、ただ生と死に横たわる絶望的なまでに深い溝を見据えているような、空虚な眼差しのように見えた。


私は母の両肩を抱いた。そして、「お父さんはもうばあちゃんとこにいったよ」と言った。
母はいつものように、私に罵声めいた不平を叫ぼうとして、上手くいかず、「そんなことがあるもんか」と掠れるような声を出した。

母が父の体から離れるのを見届けると、主治医は看護師に目で合図をした。看護師は心臓マッサージを止め、汗を拭って、父の体から降りた。

心電図が平坦な直線を描き、主治医が父の死を厳かに私達に告げた。

それは医学的、生物学的、見解というよりは、現代における託宣であり、
本来は宗教的な儀礼のもとになされるべきものだ。と私は感じた。

しかし、私達にそのような宗教は存在しない。
ただ、近代医学と、それが為した数々の奇跡が私達の信仰となり、医師というある意味でのエンジニアが、司祭の役割を担ってしまっているのだ。

私達はそういう時代を生きている。
それが悲しむべきことなのかどうか、今の時点では判断がつかない。



後日、私は霊柩車で病院に訪れた。
葬儀業者が安置所から父の遺体をストレッチャーで運び出す。

主治医がやってきた。
「我々の処置が及ばず、本当に申し訳ありません」
と彼は頭を下げた。

「いえ。ありがとうございました」私も深々と頭を下げた。

顔を上げた時、主治医は少し眩しそうな顔をして、私の顔を見ていた。そして無言で頷いた。
彼の感情がうかがい知れたのはその一瞬だけだった。


父の死後、母は今でも主治医をヤブ医者だと罵ることがある。
しかし、彼に負わされた筋違いな役割を思うと、私は今でも彼に同情せざるを得ないのだ。