megamouthの葬列

長い旅路の終わり

どう考えたら IT企業の三景

お盆前進行に入り始めた社内。皆忙しそうにしているが、私には仕事がなかったので、開発研究部署に移ってみた。
部内の机は埋まっていたが、ふと見ると、誰も座っていない机に高性能そうなフルタワー筐体が置いてあった。隣に壮年のエンジニアが座っていた。
早速「このマシン空いてますか」と尋ねてみた。すると、そのエンジニアは「今、このPCのRTX2080×2で学習モデルを検証しています」と答えた。私は虚を突かれた思いがした。
改めて社内を見渡すと、多くのExcel仕様書を作っている派遣社員の中、30代のプロパーエンジニアの隣で、新卒の男の子がゆったりとペアプログラミングしている机もある。あれも、大学院を卒業しているのだろう。
仕方なく閉塞した空気でいっぱいのSI事業部に戻ると、ここでも若者が懸命にエクセルを操作して、検証エビデンス用のスクリーンショットをとっていた。凝りもせずに「ここ空いてますか」と尋ねると、彼の上司らしきおじさんが仕方なさそうにやってきて、奥からパイプ椅子をとって、若者の隣に乱暴に置いた。
私は若者の操作を眺め続けて、さっきの操作でセルの罫線が一部消えてしまったことを指摘したが、軽く舌打ちをするばかりで、見向きもしない。居心地の悪さを感じながら、このIT企業の三景をどう考えたらいいのか自問した。


君たちはどう逃げるか

平成が終わるというのに、暗い話題ばかり目につく。

おおまかに言って、アラフォーは自分たちの老後はどうなるのかと、心配しているし、若い人はそもそも結婚して子供を作れるのかと、疑問に思っているし、年金世代は死ぬまで今の生活を続けられるだろうかと、気が気でない。

世間の憎しみは、この世界を作った政治家や官僚だけでなく、逃げ切ろうとしている社会階層にも向けられつつある。
はじめは、そこそこジョークじみたニュアンスで発せられていた「上級国民」という言葉が、最近では真性の憎悪以外に説明のつかない熱量を帯びて、口々にささやかれ始めているのだ。

もはやこの国で、人生の盤石と安心を確立することは難しくなった。

だからこそ、かつての繁栄と秩序がまだ残っているうちに「逃げ切る」という考え方が、注目され、羨望され、時には嫉妬深く、語られるようになっている。

そういう私も、出来ることなら逃げ出して、海辺でギターを弾いて沢山の子供に囲まれて暮らしてみたい。だが、中年になった今となっては、漁師をやる体力は残っていないし、英語は話せないし、高卒だからビザも下りないときている。そもそもギター弾けないし。

もう少しマシな同世代はどうかといえば、大企業や銀行に入って、繁栄のよすがに与ろうとした人たちも、狙いすましたようにリストラ対象になり、そうやすやすと逃がしませんよ、とばかりに資本からNOを食らっていて、ロスジェネ参加の人生キャノンボールは、全車クラッシュという様相である。


そんな中、プログラミングやコーディングを学んで、エンジニアを志す若者が増えてきた。
見ていると、よりにもよってWeb業界、それも制作会社への就職を目指すのではなく、いきなりフリーランスを目指すという。え?実績もコネもないのにレッドオーシャンのWebに!?
出来らぁ!とばかり、今までITと無縁だった学部や仕事をしている人たちが教材を買ったり、つながりを求めてサロンに入ったりしている。

Web業界のくたびれたおっさんであるところの私から見ると、ただの世間知らずに見える。
見えるけれど、大学に行きたくなくて、悶々として、最後には人生が詰んでしまった自分の経験を思い返すと、彼らの気持ちが理解できるのである。少なくとも説明は出来てしまうのである。


ブラック企業ワーキングプアの過酷な労働環境、先輩たちも梯子を外されて断末魔を上げている。そういう先の見えない社会で低賃金で生きるというのは、控えめにいって最悪である。
収入を増やす方法も、より良い社会階層に移動できる手段も見当たらないので、おそらくは一生、この最悪な生活に耐え続けなくてはならない。ひどい。

希望のない環境では、せめてもの慰みに人々は空想にふける。

それは、孤児院でカビたパンを食べている少女がすがる、自分は孤児と間違われた大金持ちの令嬢で、いつか本当の親が迎えに来てくれる、みたいな哀れな空想で、今の「最悪」から逃れる非現実的な方途を、自分や現実が実は○○なのだ、という間違った前提を元に構築していくという、わりと救いのないものである。

大学を卒業する見込みがなくなった21歳の私も、そういう境遇にいて、小説を書いたら何かの賞の佳作ぐらいにはなるかもしれんな……とか、Webサービスを作れば大手に買収されて一生分の金が入るかもな……とか、そういう夢をよく見ていた。
そう言いながら、作品を世に問うでもなく、サービスをリリースするまで根気よく打ち込むでもない。本当にそんな覚悟があったのかも疑わしく、ただ、全てが上手く行った時の、現実と絶望から逃げ切った時の、底知れぬ開放感と爽快感を想像して、ほんの一時の気持よさにふけるのだ。


また、もう後がない、という時に限って、人は大胆になれないものだ。
少年漫画の主人公のように、崖まで追い詰められて、やけっぱちに打ち込んだ意思と一撃が、勇者の封印をやぶって大勝利みたいなシナリオを信じる余地はほとんどなくて、崖にしがみついて、少しでも長く、一秒でも長く、この不満足な生活でいいからと、破滅の時を遅らせようと惨めにはいずりまわってしまう。

勉強の都合の良いところは、決断する必要がない、ことである。
そして、一時の安心をもたらす、ということでもある。
私は人生に迷うと電気街や大型書店といった「何か」がありそうな場所を、あてもなくさまよう、という癖があるのだけど、20年前の冬に、書店に平積みにしてあったTurboLinuxが同梱された書籍を見ていたのを覚えている。

きっと無意味だろう、こんなのを買って、Linuxとかいうのが使えるようになっても、それで生きていけるわけでなし。
それでも、家に帰ってあの不機嫌な暗闇の中で、ビクビクしているよりはマシではないか、と私はひとり、書店の片隅で何度も言い聞かせて、財布にある金を何度も数え、最後にえいやと、その本をレジに持って行って、そして、家のPCにTurboLinuxをインストールし、Linuxを使えるようになる前に、Windows98SEを起動できなくしてしまったのである。

何の話だ。

そうそう勉強をする、というのは一定の留保をもたらす、という話だ。
誤解してもらっては困るのだが、勉強することを否定しているわけではない。
勉強は人生を豊かにするし、やってマイナスであることはほとんどない。
しかし場合によっては、勉強という行為に、隠された逃避と留保のある時があって、かりそめの安心と引き換えに、現実を遠ざけることがある、ということは、覚えておいて欲しいのである。

*

実のところ、今勉強している人たちがみんな私のように現実逃避していると決めつけているわけではないし、しっかりした教材を作っているオンライン講座や、ちゃんと運営されているサロンを悪く言うつもりもない。

私が不安を覚えるのは、そこに己の邪悪を見るからである。
この業界に大量の世間知らずがやってくる、という事実を前にした時、自分の中から、ふつふつとドス黒い闇が湧いてくるのに気づくからである。


今のWeb業界とフリーランスがどうなっているか、簡単に説明する。

ご多分にもれず、今、Web業界は人手不足である。需要に対して供給が圧倒的に足りない。
だからこそ、Web制作のサプライチェーンフリーランスが存在する余地ができている。

けっこうな前から、大手の制作会社でもフリーランスを使い始めた。社員と違って、固定費の増える心配をせずに、案件のある時だけ発注すれば良く、単価も調整しやすいからだ。エンドクライアントにはバレっこない。何なら自社の名刺を作ってもいいし。
これは上手く行って、制作会社は価格競争力を手に入れた。自然に、ほとんどの制作会社がフリーランスでWeb案件を回し始めた。

フリーランスが足りなくなると、アラフォーになった制作会社の社員が退職して、フリーランスに鞍替えしていった。同じ仕事をしていて月給の倍ほどの報酬を手にできるし、仕事は元いた会社に回してもらえば良いので、キャリアプランとして双方に利のある話だった。

ただ単価が静かに下落していった。

クラウドや、フロントエンド技術の発展で、個別の案件の難度は増した。
今どきjQueryが出来ても何の自慢にもならない世界になった。

下げ止まらない単価に音を上げて、いくつかの小規模ベンダーが潰れるか、業界から撤退した。
人手不足というより、安い給料で高い技術を発揮する人間がいなくなって、人材が劣化し、最低限のクオリティを保つどころか、納品すらできない状況になったのだ。

そして、今、残った制作会社がWeb案件を請けきれなくなっている。
案件はたくさんある。しかしそれは、縮小するパイを取り合うプレイヤーが消えた結果で、誰も食べない余ったパイの切れ端がいつまでたっても皿に残っている、という具合である。

よって現在、私のようなクソ雑魚フリーランスに与えられるWeb案件は二つに大別できる。

ヤバめの案件か、正真正銘のそびえたつ何とかだ。

この業界でゾンビとして生き続けているフリーランスたちは、それを慎重により分けている。生存者同士のか細いネットワークに流れる噂をキャッチし、危ないエンドと論外のエンドを嗅ぎ分けて、スレスレの制作をやっている。
それでも、どうしようもない案件にぶち当たることもある。もしくは、そこそこ美味しい案件の前に立ちはだかる厄介な壁として出会うこともある。

そんな時、視界の端に仕事を求めるワナビーの群れが目に入るのである。喉から手が出るほど実績を欲しがっていて、相場も知らないWebエンジニア志望者の群れが。

Slackチャンネルで和気あいあいとする彼らを見て、悪魔がささやくのである。
エンドクライアントが教えてもない個人携帯に電話をかけてくるようになった、あの案件、彼らに紹介してあげるのはどうだろう?
あんなに仕事を欲しがってるじゃないか、もし思ったより良い案件だったら、彼らが上手く整理できたら、その時は取り上げてしまえばいい。なあに、元はといえば、ベンダー連中が俺たちにやってきたことだ。そうやって、俺たちだけは逃げ切ってしまおうよ、と。

私はそのような考えが浮かぶたびに、庭に出て、頭から水をかぶって、人倫にもとる自分を戒めている。ダメ、絶対。

体から湯気を立たせて、遠くの山並みを見上げながら、私は思う。
狩りをしたことはないけれど、銃で狙うなら、こちらに向かってくる猛獣よりも、猟犬や何かから逃げ回っている獲物をしとめるほうが安全だし、簡単ではないだろうか、と。


もしあなたが何かから逃げているなら、不満足な今を留保しているのなら、凝視する銃口が、空を穿つ漆黒が、自分に向かっていないか、重々注意したほうが良いだろう。
杞憂であれば、それにこしたことはないのだから。


漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

氷河期世代に告ぐ

曖昧な男だった。
真っ暗な客席が取り囲む舞台の中心に立って、スポットライトで照らされた黒いスーツの輪郭が、強すぎる光に半ば溶けていた。

男は手を後ろにまわして、観衆の凝視を楽しむように、静止している。
時々、遠くを見るように顔を上げ、肩より上のシルエットを整えた。他の者がこれをすれば、あるいは落ち着きを失っているように見えたかもしれないが、この男の場合、所作があまりに堂々としているので、かえって油断ならない印象になった。

客席の暗がりに黒い頭が幾つも見える。それらは管理された動物のように整然と並んでいて、いくつかが耐え難くなってうつむいてしまう他は、動きがなかった。

男がゆっくりと観衆を見回した。
視線を向けられた者たちが息を呑むのが伝わってくる。しかし、男はすぐに興味を失って、中空に視線を戻してしまった。

ほんのわずか、落胆する声が漏れた。その小さな嘆息が、場内を駆け巡って、やがて、男を照らすライトの中に集まって、消えた。
そのタイミングを見計らって、男は沈黙を破った。

親愛なる諸君――

*

今、私の前にいる青年は、この一ヶ月、8時から夜の10時まで働き、毎日の食事も簡素にすませており、贅沢な旅行もしていない。

しかし今、彼の財布に残されているのは、食事付きのホテルで一泊してワインを楽しむのがやっとの金だ。
貯金をしたのではない。投資をしたのではない。ギャンブルに負けたわけでもない。
1ヶ月の過酷な労働の対価を元手に、ただ生き延びるために消費をした。
その結果がこれなのだ。

盗賊が大挙して、この勤勉な青年から金を盗みとっているのだ。

盗人の一人はこれを再分配の原資や社会保障だと言って、労働の報酬をかすめ取っている。
違う盗人は、仕事終わりに調理せずにすむ食事を深夜でも買えるようにするには、相応のコストがかかるのだ、と言って、ひどい味わいの、化学物質まみれの食品を法外な価格で彼に売りつける。
また違う盗人は、高価な通信端末を提供し、ネットワーク網を維持するためだと言って、口座からなけなしの金を引き落としていく。


幸いにも、我々は互いに助け合うことを知っている。
この苦痛と、不運を、共に嘆き、悲しむことができる。
ある日には政府を、またある日には巨大資本を、辛辣な言葉で批判できる。

しかし、なぜ我々がお互いの困窮を慰めあわなければならないのか?

もし、自分の金庫から財産を盗まれたのであれば、すべきは、その悲しみを皆で共有することではない。不平を言うことでもない。盗人を探しだし、その首根っこを掴むことだ。


我々は今、強い不安の元にある。
将来の見通しも、ささやかな幸せも、心からの満足も、どれ一つとしてない。

全て奪われてしまったのだ。我々にはそれを持つ資格がないと、権力によって当然として、まきあげられたのだ。
そして、権力は我々から取り上げたものを、異なる人々に、我々のように困窮していない人々に、気前よく分け与えている。

それは彼らが行政と呼ぶ、自らの非効率に目を向けようともしない者どもの、特権的な雇用を保障するために使われている。
それは彼らが産業振興と呼ぶ、我々に惨めな給与を支払う、巨大資本をさらに肥え太らせるために使われている。
それは彼らが福祉と呼ぶ、かつてこの国を支えたと称する、何ら生産性を持たない者を生き長らえさせているために使われている。

彼らは、このシステムを誰しもが恩恵に預かれるもので、かつ、持続可能なものだと主張している。

その言い分に従うならば、もしこれが、約束された安寧の準備で、一時の窮乏であるならば、我々世代の抑制された心性は、それに耐えることができるかもしれない。

しかし、果たしてそうだろうか?
システムが維持され、我々が老人になった時にも、同じ恩寵を与えられると、そのうちに、我々があちら側に回ることが可能だと、この国がその能力を有していると、我々が信用できる根拠を、この政府は一度として示したことがあっただろうか?

もしここに政治家や官僚がいれば、それは示されている。過去に示したことがある、と断言するだろう。

年金の受給年齢が引き下げられるのは、我々が健康になったからだ。
税金を引き上げるのは、我々の所得が向上したからだ、と考えてもかまわないだろう。
食品の価格が上昇するのは、我々が少食になり、調理によって食材を節約する術を手に入れた結果だとも言える。
社会保険料が年々釣り上がっているのは、我々が高度な医療を歓喜して迎え、今いる老人たちにさらなる長寿を願った結果としなければならない。

はたして我々は彼らを信用し続けるべきなのだろうか?
この社会は信用に値するだろうか?


今、我々は完全なる民主主義国家で暮らしている。
国会にいる政治家は我々の公正な投票の結果によって、その権力を保証されている。
彼らの決定は間接的に我々の決定であり、彼らの失敗もまた、我々の失敗だ、というわけだ。


我々は様々なものを信じたことがある。

経済の構造を変革すれば、あるいは通貨の発行量を操作すれば、再分配のルールを調整すれば、この国は昔日のような繁栄の途につくのだと、あるいは今ある凄惨な衰退を食い止めることができると、無邪気に信じたのだ。

しかし今、この荒廃し、赤錆びた都市で、結婚もできず、子供も産めない、この世界のどこに、約束された幸福を見いだせば良いというのだ?

我々は誤った、と後世の歴史家は言うのかも知れない。もし、我々に充分な選択肢があったのなら、その主張も一定の真実を帯びるだろう。

もちろん実際は違う。
我々に選択の余地などなかった。
我々ができたことは一つ。何もする気のない保守政党と、能力のない革新政党との稚拙なゲームのどちらか一方に、玩具のチップを賭けることだけだったのだ。

いったい、これは選択なのか?
このプロセスのどこに、民主主義が標榜する、人民の、人民による、人民のための統治があるというのだ?

スキャンダルに顔をしかめられる権利を、出来レースの結果を見て一喜一憂するだけの権利を、どのように解釈しようが、それが選択でも信任でもないのは明らかではないか。


今ある民主主義と、それを前提とした権力を我々は保証したことがない。
一方で、歴史によって、憲法によって、法律によって、システムによって、それは保証されたことになっている。
全ては我々の選択であり、責任なのだ、と見なされている。
目の届かない暗がりで、他ならぬ分配を受けとる側の人間が、実際の施政のことごとくを決めてきたにも関わらずだ。

だからこそ今、我々の苦しみが自分たちの下した決断によるものだ、という空疎な主張は、きっぱりと否定されなければならない。
この現実を結果として受け入れるべきだ、という浅はかな詭弁は、断固として拒否しなければならない。


我々はもう十分に耐えた。
苦痛と困窮を飽き飽きするほどに味わった。

今こそ我々は行動しなければならない。
奪われたものを取り戻さなければならない。
もはや現在の権力と、その受益者に対する憐れみは、一切が不要である。

どのような方法であれ、機能不全に陥った政府機能を、我々の理性的で、平等な政治に入替えることに道義的懸念はない。
歪みきった社会構造は振り下ろされた我々の拳によって粉微塵に破壊され、未来の、我々の子らのために再構築されるであろう。
我々は資本家どもが首都に集積した富を、今や詩的な響きを持ちはじめた旧世界の地方都市に分配することができる。
旧権力が国民からかすめ取っていた財産は、我々が新たに打ち立てた、公正で正統な政府によって元の持ち主に返還されなければならない。


氷河期世代に告ぐ。

お前たちが旧世代から受け継ぎ、今まさに維持しているこの社会システムこそが、先に、我々を攻撃したのだ。
我々は誇り高き理想と不退転の意思をもってこれに反撃し、粉砕するつもりだ。
お前たちの放埒なまでの無責任と、卑劣な不作為によって、荒廃した世界を、我々は団結して再生する。

彼岸に渡った旧世代の暴虐を、その価値観に安住し、ことごとく見過ごしたお前たちの罪は、今まさに、この時、そそがれることになる。


2049年9月1日。5時45分。ただ今をもって我々は反撃を開始する。

*

観客席のミュートが切られ、耳をつんざくような歓声が流れた。
カタルシスの予感に身震いし、ただ感情のままに発せられた声の集合だった。

男は満足そうに頷くと、腰のあたりで軽く右手を上げ、その姿のままスポットライトの光輪に染み出すように消えてしまった。
少しして、会場の照明が落とされ、視界は暗闇に包まれた。



1970年代生まれの老人は、旧式のVRセットを取り外して、汗を拭った。
午後6時前、薄曇りにさえぎられた青い夕日が、10年代に作られた薄汚れた室内を照らしている。

しわだらけの手が震えているのに気づいた。夕食後の自由時間、施設の皆も部屋で同じVR放送を見ていたに違いない。
一刻も早く、談話室でこの件について話し合わなくては、と思った。

関節痛で動きにくくなった足を奮いたたせて、老人は自室のドアに向かう。
ドアの先にある廊下を複数の足音が駆け抜けていって、驚いて足が止まった。首をすくめて外の様子を伺う。

隣室のドアが乱暴に開けられる音がした、若い男の集団と、老婆が振り絞る、蚊の鳴くような声が口論しているのが聞こえる。
不意に、男たちの怒鳴り声が止まった。

何かが破裂するような音がして、静かになる。

老人は、ドアを開けるのをあきらめて、同じような足取りでゆっくりと部屋の奥にあるベッドに戻っていった。
静かに横たわって、赤ん坊のように体をすくめる。
昔も、ここでない場所で、よくそうしていたのを思い出した。

自分の部屋のドアが、金属のようなもので乱暴に叩かれ始めた。

さて、あの頃は何から逃げていただろうか、現実から目をそらし続ける頭が思考に沈む前に、視界の端で、はね飛ぶようにドアが開かれるのが写った。


帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)

帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)