megamouthの葬列

長い旅路の終わり

もう遅い

システムを納品した。詳細は書けないが、物流の現場に導入する業務効率化システムみたいなものだ。ギリギリの数のトラック、安い運賃、運行計画の担当者は毎日5時間以上、10MBのExcelファイルをいじくりまわしている。上手く行けばそれを終わりにできるシステムだった。

その日、訪れた事務所に担当役員はいなかった。現場の担当者だけが申し訳無さそうに座っている。彼との認識合わせはリモートであらかた済ましていたから、話すことは特になかった。
困惑しながら、儀礼的に印刷されたドキュメント一式を渡して、成果物は以前お話した通りサーバーに展開してあります。と伝えた。担当者は、ありがとうございます、と言った。それで終わりだった。

担当役員が事務所にいない理由を後から聞いた。他の拠点が派手に崩壊したので、その立て直しのために奔走しているらしい。
それを聞いて、決して大きくないこの会社のこのプロジェクトの予算がどこから来たのかに思い当たった。退職による自然減による人員削減だ。つまりシステムを作るための金は、現場から人が減ったことで捻出された。その現場を助けるためのシステムを、私は作っていた。つまりは、現場はシステムが完成するより先に崩壊していて、静かに息の根がとまり慣性で動いているだけだった。私のシステムは、その誰もいない舞台のために作られた大道具だったということになる。


そうやって崩壊した現場は見たことがあった。というより私がその当事者だったのだ。

あるWeb系の会社でサーバー管理をしていた頃、気がつくと周りの人間がどんどん辞めていって、最後には自分一人になっていた。何度か上司に増員を訴えてみたが、誰も面接に来ないようだった。仕方ないので、転職活動を始めながら、私はせっせとインフラをマネージドサービスに切り替えていった。自分がいなくなった後でも、なんとか回るように。
それに気づいた他の役員が粗利率の悪化について嫌味を言ってきたが、こうするしかないじゃないですか、私が倒れたら終わるんですよ、と答えたら彼も黙った。

サーバーは動いていた。トラブルは収まっていた。私が収めていたから。
でも誰の目にも見えないところで、その仕組みはもう詰んでいた。今、優秀な新人が来たところで私の退職までに保守すべき多種多様なサービスについて説明することは不可能だった。将棋で言えば、あと何手かで終局だ、ということが私にはわかっていた。それを口にしなかったのは、今まで散々言っても何も変わらなかったこともあるが―――言っても方策がなかったからだ。もう何も言う意味がなかった。

私は遺書のように引き継ぎ資料を書いた。その日まで準備を続けてきたが、最後まで残ったレガシーシステム(無理やりopensslだけを更新したCentOS5のサーバーなど)を今後どう運用すればいいのかまで、書けるスペースはなかったから、それはやはり文字通りインフラ部門の遺書だったのかもしれなかった。
引き継ぎ相手はどこからかやってきた業務委託の若者で、3ヶ月更新だという話だった。彼は資料を一瞥して、「助かります!」と言った。きっと何もないよりは良かったのだろう。

私が辞めた後どうなったかは、よくわからない。外から見る限り、サーバーホスティングが必要な仕事は受けていないようだった。崩壊したのか、縮小したのか、静かに諦めたのか。爆発ではなく、蒸発するように終わったのかもしれない。世界の終わりに現場の人間にできることはせいぜいそれぐらいのことなのだ。


なぜこういうことが起きるのだろう、とずっと考えていた。
風通しの問題だろうか。私は人員が足りないとずっと言っていた。言っていたのに、何も変わらなかった。情報は届いていた。でも組織は動かなかったということになる。
では経営層が無能だったのか。そうとも言い切れない。例えば、先の物流の担当役員は今、別の拠点の火を消しに行っている。無能な人間にできる仕事ではない。

一つ思うのは、「当事者は痛みを理解できない」ということだ。
システムを作るという行為は、現場に接触することを強制する。10MBのExcelファイルを毎日5時間いじくりまわしている人間が何をしているのか、なぜそうなっているのか、それを理解しないとシステムは作れない。作っている最中、私はずっとそのことを考えていた。これだけの人数で、よく回しているな、と何度も感心した。そして偉大な仕事だと思った。担当者だけではない、時間通りに運ぶトラック運転手、倉庫を管理する作業員。誰にも理解されずに、最低賃金に近い水準で、この人たちは働いているのだ、と考えると、何度も溜息がでた。

部外者である自分が理解できるのに、経営層が現場を理解していないように見えるのは、情報が届いていないからでも、そのための知性がないからでもなく、その情報が「痛み」を伴うからだ。

ギリギリまで人間が切り詰められた現場が、軋むような断末魔を上げている中でも、彼らは意思決定をし続けなくてはならない。そのためには、まずはその「痛み」をシャットアウトしなくてはならないのだ。人を削減する(あるいは補充の人間を入れない)、拠点を閉じる、事業を畳む——そのたびに現場の痛みを引き受けていたら、決断などできない。だから彼らは訓練する。意識的にかどうかはわからないが、現場の痛みが数字に変換された瞬間に、それを痛みとして受け取らないように、回路を切っていく。

その結果として「人が入ればいいね」「このビジネスも終わりだね」という言葉が、天気予報を読み上げるような平静さで口から出てくるようになる。

私たちと同じように取り乱せという話ではない。ただ、その平静さが、too lateを加速させる。痛みがなければ緊急性は生まれない。緊急性がなければ、動く理由もない。

経営層には次のビジネスがある。担当役員には次の拠点がある。痛みをシャットアウトできる人間には、常に次の場所がある。現場が崩壊しても、彼らは別の火を消しに行けばいい。

痛みを感じる人間だけが、とり残される。
10MBのExcelファイルをいじくりまわしていた担当者は今、あの事務所で何をしているだろう。私のシステムは、まだサーバーの中にある。起動されないまま。

例えば私たちは中東で何が起きているか、知っている。数字も映像も届いている。子供が死んでいる。街が瓦礫になっている。でも理解しているかというと——していない。自分の痛みと接続できないからだ。遠いのだ、回路として。

経営層にとって現場とは、そういうものなのかもしれない。物理的に遠いのではなく、痛みの回路として遠い。数字とレポートというフィルターが、現場を中東にしてしまう。そして中東で子供が死んでいても私たちが今日の夕食を考えられるように、現場が崩壊しかけていても、彼らは次のビジネスを考えられる。

理解した人間が何も変えられない。理解しない人間が全てを決める。現場の痛みが数字に変換され、数字が意思決定の材料になり、その意思決定が現場を削っていく。その循環がこの30年、この国で続いた。

きっと誰かが豊かにはなったのだろう。それは少なくとも、毎日5時間、10MBのExcelファイルをいじくりまわしていた人間ではない、工場の近くで7時間待機しているドライバーでもない。

だが、豊かになった彼らもそのうち気づくだろう。石油を積んだタンカーが来なくなった時には気づかざるをえない。自分の知らないところで下された想像力の欠片も存在しない決定が、冷徹な判断というやつが、自分の生活と誇りと尊厳を根こそぎ壊すということがどういうことなのか、もうすぐ彼らにだってわかる。私たちが見慣れた結末は、もうすぐそこだ。


世にも惨めな我が子への手紙

46歳になって、お前のことを――俺の生まれなかった子のことを考えた。生まれかけた命をどうこうする話ではない。そういう話が書けないというより、俺の人生には最初からその入口がなかった。入口がなかった理由は、いくらでもそれらしく言える。病気、金、仕事、将来、言葉を並べられる。フィナンシャル・アドバイザーの中年女が額に汗をかきながら、愛想笑いを浮かべて「残念なことですが、仕方ないことでもあります。今は未来について話をしましょうか」と言ってくるだけのものは、俺はいつでもマジシャンのように綺麗に取り出すことができる。俺には家庭がない、困窮するお前はここにはいない。なぜなら俺が十分に賢かったからだ。あなたもそう思うでしょ?おばさん。

子供を持った自分を想像したことは何度もある。若い頃は、逃れられない宿命として疎ましかった。適齢期には、ほのかな憧れとして眺めていたような気がする。今は―――そうだな、ファンタジーだ。死んだら神様に会って、剣と魔法の世界に転生している、ぐらいの話として扱っている。最新版はこうだ。日曜の午前の日差し、庭に止まった黒光りするSUV、お前ははしゃいで、座席に収まりもしない。俺はそれを見ても格別の感情も抱いた様子もなく、機械的に運転席に座ってシートベルトを締める。少し機嫌の悪い妻が助手席に乗り込んでくる。まるで車のコマーシャルで、反吐がでてくる。

笑えるのは、これがお前を想像するのじゃなくて自分が傷つかない想像になっていることだ。チャイルドシートの製品シールがかすれて読めなくなっているみたいな描写は入ってこない。金の話も、時間の話も、擦り減っていく何物の話も入れない。入れた途端に夢が壊れるからだ。壊れるぐらいなら、最初からコマーシャルのほうがマシだ。

実際のところはどうなのかも想像がついている。俺が身の程を知った生き方をしていれば、どうだったか、というやつだ。これは実物がある。地元に残っている同級生の家族だ。自転車が二台、同じ速度で進んでいて、後ろのチャイルドシートに小さな女の子が乗っていた。ヘルメットのあご紐が少しずれていて、揺れるたびに頬が白く見えた。同級生は前を見ていた。ちっとも笑っていなかった。自転車は狭い歩道をノロノロと窮屈そうに走った。冬の風が荷台のビニール紐を揺らす。

俺はそれを見て、安心した。ああ、これが現実だ、と言えるからだ。現実が窮屈で、笑っていない顔をしていれば、お前の不在にも形がつく。俺は他人の生活から都合のいい証拠を拾って、自分の言い訳を契約書の文言みたいに硬くできるってわけだ。甲は乙である、だから仕方ない、これで終わりだ。どれだけ汚い動機でも、言葉にして印を押せば合法になる。折れなくて済めば、何も失わない。どうだ賢いだろ?

愛については何も言えていないと思っていないか?俺に言わせれば愛っていうのは気持ちじゃない。気持ちなんて人間の後付けだ、それこそ合理性の塊だ。愛はもっと下品で、もっと古い。虫ですら持ってる。精子ですら持ってるかもしれない。向こうへ行く力だ。増えようとする力だ。自分の外側を作ろうとする力のことだ。
だから愛は、立派じゃない。合理的でも、理性的でもない。むしろその反対側にある。クソみたいな野蛮が愛だ。だから俺は持てるものの全てを使ってそいつをふん縛ってるというわけだ。俺は虫じゃない。虫みたいに雌に食われる代わりに、戻ってこれる。戻ってきて、こうやってお前に説明ができる。説明できるってことが、どれだけ便利な檻かお前なら知ってるだろう。

俺がここまで賢くなったのは理由がある。ある年まで俺は本気で仕事をした。頭がぶっ壊れるまでな。そんな「本気」なんて、世の中には掃いて捨てるほどあるんだろうが、それでも俺の本気は俺のものだ。誰も解けない問題を解いた。回らない歯車を深夜までかかって回して翌朝に吐いた。どうしてそこまでやるのか、ってお前は言うだろう。それが使命だと思ったからだ。つまりは、そうすれば、まわりの連中も俺のありがたみに気づくだろうという算段を俺はもっていたわけだ。

ボーナス面談の日、舐め腐った上司が舐め腐った態度で席に座っていた。チンケなビジネスを回してるだけでいい気になっているような顔だ。俺が回しているのはそのチンケなビジネスのそのまた小さな歯車でしかないが、俺のほうが本気でやってるのは明らかなんだから、やはり奴は舐め腐った顔をしていた。俺はこの顔を知っている。フィナンシャル・アドバイザーの中年女と同じ種類の顔だ。笑って、謝って、未来の話に逃がす顔。

上司は俺の評価シートみたいな紙を見て、ペンで何かに丸をつけた。俺の時間に丸をつけている。俺の睡眠に丸をつけている。俺の集中力に丸をつけている。俺の苛立ちに丸をつけている。そして、最後に俺という人生に丸をつけて言った。

「今回はね」

一息つく。演出だ。俺のほうを見ないまま言う。

「三万」

三万という数字は、奇妙にきれいだった。きれいすぎて、俺は反論できなかった。反論っていうのは、同じ土俵に上がることだ。俺がその場で「それは違う」と言えば、俺は値札の世界に入る。入った瞬間に、俺も虫じゃなくなる。虫みたいに向こうへ行けない代わりに、戻ってこれるようになる。戻ってきて、説明できるようになる。ビジネスと業界動向と事業と漫才について、エネルギーを持って語れるようになるというわけだ。

俺は笑ってしまった。笑うつもりはなかったが、口が勝手に動いた。笑いは常に俺の逃げだ。逃げが身体に染みている。「そうですか」と言った。上司はほっとした顔をした。面談が面談として成立したからだ。成立すれば、誰も責められない。合理性の勝ちだ。

会社を出て、コンビニで缶ビールを買った。三万のことを考えながら、二百何十円の缶を手に取った。レジの女は笑わなかった。笑う必要がないからだ。俺はアプリのポイントカードのバーコードを出した。女はバーコードを読み取って「ありがとうございました」と言った。何かが貯まった。貯まるってのはいい。貯まるのは、増えるのと似ている。似ているだけで、違う。ポイントは向こうへ行かない。どこにも行かない。

家に帰って、靴を揃えて、シャワーを浴びて、髪を乾かして、洗濯を回して、干した。増えるのは俺の生活だけだ。あの三万は、俺の本気を殺したんじゃない。殺したのは俺だ。俺はわかっていたが、虫だったので、何もわからないふりをするしかなかった。俺はあの数字を受け入れて、きれいに畳んで、引き出しにしまった。

そうやって賢くなった。愛を縛る縄を覚えた。縄は説明でできている。説明ができるってことが、どれだけ便利な檻か、お前なら知ってるだろ?

お前を養う金が三万円しかなかったから、お前はとうとう生まれることはなかった。三万円、と言った途端に話が終わる。その終わり方を、俺はずっと練習してきた。俺がこのことを説明できるようになったのは、ごく最近のことだ。最近になって、ようやく分かったんじゃない。最近になって、ようやく言えるようになった。言えるようになっただけだ。

上司の顔を思い出す。あのとき奴は、俺の話を聞いていなかった。聞いていないのに、丸をつけた。丸をつければ面談になる。面談になれば数字になる。数字になれば俺が黙る。黙れば全部が終わる。終わったことになる。俺はその仕組みが好きだった。好きだったから、乗った。

だからお前に聞かせてやれるのはここまでだ。俺は満足している。満足というのは、気分がいいという意味じゃない。夜にちゃんと眠れるという意味だ。朝にちゃんと起きて、歯を磨いて、洗濯を回して、また引き出しを閉められるという意味だ。できればお前にも味あわせてやりたかったけど、それはできない相談だ。何しろお前は生まれなかったのだから。


ビジネスとかいう採点表のないインチキスポーツ

ビジネスに負けた、という言い方は便利すぎると思う。

何に負けたのか説明できないとき、最後に置ける単語だからだ。提案して音沙汰がない時、コンペで選ばれなかった時、いろいろ要因を洗っても落ち度が見つからない時に、誰かが言う――「ビジネスに負けた」。

そう言った瞬間から、負けの要因分析は霧散して、なぜなぜなぜが始まる。結局、答えは自分の内側に回収される。僕の場合は、やる気がないとか、コミュ力がないとか、全体最適ができないとか。だいたいそういう話になる。

採点表がどこにも掲示されていないのに、点数だけが返ってくるみたいだ。採点基準を明らかにしない卑怯さのくせに、返ってくる点数だけは妙に断定的で、本当に気に食わない。

ビジネスというものが婉曲な生存競争であることは、頭ではわかっている。勝つ人がいて、負ける人がいる。資本が集まって、意思決定が起きて、仕事が配られる。椅子にありつけなかった僕は、そもそも必死になって椅子を取ろうともしていない。結果として負ける。もう随分、負けが続いているから、生活はどんどん痩せていく。やがてパンを買えなくなって死ぬだろう。因果関係としては確からしい。確からしいんだが、本当にそうなのか、という疑念がどこかに残っている。

たぶん僕の疑念は、負けたこと自体より、負け方にある。

部分最適なら、わりと上手くやったほうだと思う。保守性のあるコードというものについて知っているし、触ったことのない分野でも必要な知識を拾って実装できる。地味なバグの匂いを嗅いで先に潰す、みたいな癖もある。そういうものは、現場では役に立つ。少なくとも、僕はこの分野に関しては獣のように獰猛になれる。

ところがビジネスの場に出た瞬間、それらは見えないぐらいに小さくなる。「でも全体最適できてないですよね?」と言われて何も言い返せない。言い返せないのは、僕が間違っているからじゃない。全体とは何なのかが説明されないからだ。開発部門の話なのか、会社全体の話なのか、マーケットの話なのか、それとも宇宙のルールについてなのか。説明されないのに、それが最終判定として成立してしまう。

僕に言わせれば全体最適という言葉は、説明じゃなくて、終了の合図だ。本当のところは誰もわかってないのに、人を殴りつけるには最適で、使った者はさぞかし賢いことを言った気になれる。最高の棍棒だ。

本当に、ビジネスの薄気味悪さったらない。生存競争は残酷でもルールが見える。あのライオンはなぜ死んだのか。食うか食われるか、速いか遅いか、強いか弱いか。カメラで追跡すれば、そのうちにわかる。ビジネスは違う。ルールが見えない。採点者が何を見ているかも見えない。見えないのに、審判だけが笛を吹く。気がつくとライオンは死んでいる。僕は点数だけを受け取って、今日も負けたらしいと思う。負け方が説明されないから、僕にできることはその感覚に慣れていくことだけだ。きっと明日も負けるだろう。



「正体がわからないものについて知るには、飛び込め」と言われる。たぶん正しい。ビジネスのど真ん中に飛び込んでみれば、何かわかるかもしれない。でも次にわかったことは、入口がないということだった。

マーケットは遠くに見えている。そこに金があるのも、人がいるのも、仕事が動いているのも、ぼんやりとは分かる。でもそのマーケットの入口がどこにも見つからない。入口がないというより、入口が入口の顔をしていない。今のところの仮説だが、たぶん、入口は共同体の形をしている。

入口の看板だけなら、いくらでもある。セミナー、交流会、朝活、SNSの成功談、起業家のYoutubeチャンネル。どれも入口の顔をしている。でも、入口に見えるものほど入口ではない。入口であること自体が商品になっている。スタジアムの中で行われているのは競技ではなく、ただの即売会だ。入口に立った所で、競技者ではなく消費する客として扱われる。それかそいつ自身が商品なのだ。

例えば、社長同士のコミュニティがあって、朝5時半に集まってZoom会議をする。紹介が回り、つながりが生まれ、仕事が生まれるらしい。身近な社長がそこに飛び込んでいった。画面越しに笑顔が並び、気合いの入った挨拶が続く。みんな市場の入口に立っているような顔をしている。でも見ていると、どうにも空回っているようにしか見えない。市場に向かって走っているのか、共同体の中で回転しているのかが分からない。少なくとも僕には見分けがつかない。

ビジネスの世界への飛び込み方が分からないのが問題ではないのかもしれない。問題は、飛び込むと決めた瞬間に、見えない採点表に同意したことになってしまう点だ。何が評価されるのかは教えられない。でも、評価される前提で振る舞うことだけは求められる。紹介の回し方、愛想の作り方、熱量の出し方、肩書きの磨き方。そういうものを価値として受け入れろ、ということになる。そして、それでも競技者として扱われるかは彼らの気分しだいだ。僕はそこに抵抗がある。

ここまで来ると、「僕はビジネスに負けた」という文は、半分だけ嘘になる。負けたのはビジネスじゃなくて、入口の形式かもしれない。入口に共同体の作法が供えられていて、その生臭いイワシの頭が嫌で近寄れない、そういう僕の正気が、全ての原因なのかもしれない。

そもそも僕は勝ちたいわけじゃない。上に行きたいわけでもない。せめてルールを見たい。採点表を見たい。何が価値で、何がリスクで、誰が責任を負い、誰が許可を出しているのか。そういうものが、説明の形をして存在していてほしい。

でも現実は、説明の形をしていないものが勝っている。せいぜい説明できないものが、説明できる人を採点するだけだ。市場は見える。入口は見えない。僕はそこに立って、自分が競技に参加できているのかもわからないまま、今日も点数だけを受け取っている。