喫茶店で紅茶を飲んでボーとしていると、隣席に男性二人組が座った。
両方とも中年から老人にさしかかった齢に見え、体格に合わせた肩幅の広い良いスーツを着ているが、どこか下卑てもいて、一見して中小企業の経営者仲間に見えた。
二人の声が大きいので、その気がないにも関わらず、会話が自然耳に入ってくる。彼らが話しているのは、誰かの悪口のようだった。
「100万貸したんやで、100万」
と禿頭のほうが言った。
「それはどうなったんや」
もう一方が尋ねた
「未だに返してこうへん。100万やで100万!」
最後のほうは息切れするような口調で、憤然とした様子だった。
どうも、禿紳士は社員かビジネスパートナーか、その人物が彼の元から去ってしまったこと、以前に貸した金も返しに来ないこと、を怒っているようだった。
さらに言葉を重ねているうちに、また腹が立ってきたのだろう。喫茶店の弛緩した喧騒の中で、彼は一際大きな声を出した。
「人の道を外れとる!」
この事があったからなのか、以下のツイートを見た時も私はそれっぽいな、と思った。
NewsPicksが今までパートナーシップを組んでやって来たNewsPicks Bookを突然、自分たちだけでやると通告して来た。どれだけ幻冬舎を利用して来たと思っているんだ。この会社には義理、仁義、礼儀、恩義といった「義」に関するものが一つもない。今は勢いが良くてもこういう会社は必ず滅びる。
— 見城 徹 (@kenjo_toru1229) 2019年2月27日
それっぽいというのは、経営者っぽいな、という意味である。
見城氏は幻冬舎の社長なので、それっぽいも何も経営者なのだが、ビジネス上の紛争を「義」をもって断じようとするあたり、いかにも、という感じがするのである。
出版業界に疎い私は、幻冬舎という会社をよく知らない
「リアル鬼ごっこ」を出したとか、百田直樹の美しい日本の本を出したとか、元少年Aの告白本を出そうとしたが、東野圭吾がキレそうだったので辞めたとか、知っているのはその程度のことだ。
だから、その社長である見城氏のこともほとんどわからない。
案外、前漢の創立者、劉邦のような「義」の人なのかもしれない。そうでなければ、自分に代わって、天に誅を命ずるような大それたことは中々言えない。
冗談はさておき、一部の経営者が「人の道」とか「義」とか「筋」を、やたらと説きたがることがあり、それを昔から私は訝しんでいる。
例えば、給料が安いので辞めたい、というごく単純にして非の打ち所のない退職理由を経営者に述べたとする。
普通の論理で言えば、それは、辞めようとする人が生み出す価値が少ないか、不当に低く評価された結果であるので、もし引き止めるとすれば、彼の働きぶりとビジネスへの貢献度を再評価して給与を設定しなおすか、昇給を約束しつつ、別の仕事を提案すれば良い。
その条件で、なおも彼が辞めると言うのであれば、どうやっても当社のビジネスモデルと資本では、それ以上出すことはできないわけだから、残念だけど、仕方ないね。で終わる。
ただ、こういう形で終わった、という話を聞かない。
こちらは誠意を見せている。とか、
無責任だ、代わりの人が決まるまで待つべきだ。とか、
みんな我慢しているのに、自分だけ良ければいいのか。とか、
なにやら、妙な価値観で説得しようとしてくる。
この価値観を理解するのは簡単だ。
結論から言えば、これらは全て「人の道」「筋」「義」の話なのである。
証拠に全ての言葉の最後に「それでも辞めるなら、人としておかしい」「筋を通せ」「恩義を忘れたのか」をそれぞれ何でもつけることができてしまう。
つまりはその程度の主張であり、説得である。
私なぞは、自分が常道を逸し、人でなしとして生きている自覚を持っているので、こんな事を言われても「はいはい、孔子孔子」的に手を振ってそのまま会議室を出て行ってしまい、その後喫茶店で「人としておかしい」と罵られることになっても何も思わない。だって事実だし。
それはさておき、特別、儒教に傾倒しているわけでも徳をコアバリューとしたガバナンスを行なっているわけでもない普通の経営者がなぜ人倫にやたら厳しいのか。
私は、それは彼らが普段、善悪の境を常に漂っているからではないかと、思う。
下請けに無料のスペックワークを要求するとか、役員営業で意味不明の値引きをして、その尻拭いを社内に回すとか、会社の金で飲み食いするとか、赤字決算で昇給はナシだけど、役員報酬は増額とか、日頃、金の出し入れについてデタラメをやっているから、彼らは金に関する善悪の基準を失っている。
一方で、彼らは経営会計の最高責任者でもあるので、金に関する「許せない線」をどこかで引く必要に迫られている。
例えば、社用車として新車のBMWを購入して、私用で乗りまくってる身の上で、備品のノートパソコンを持ち帰ったまま退職した従業員を「悪」と断定しなければならない。
それはそれ、これはこれ、お前は俺が気に食わないからアウト、ぐらい言えれば大したものだが、彼らも自分のやっていることの矛盾には気づいている。
だから枝葉末節はともかくとして、ぼくのかんがえたわるいこと、を「悪」として断じられる体裁のいい価値観を使いたい。
そこで経営者が飛びつくのが、「人の道」という、漠然とした、儒教風の道義的価値観である。
もちろん誰であっても「人の道」を説くことは許されている。
許されているが、普通の人が簡単にそういう事を言わないのは、あまり意味がないからである。
仮にあなたがマルチにはまる同僚に「人の道」を説いたとしても、そんな大上段の説教に感動して、自分の考えを曲げてくれる人は少ないだろう。そんなものより、個人の信頼関係のほうが説得力を持つことがほとんどだ。
一部の経営者は社員から信用されていない。当人もその事を無自覚にしろ理解している。
同時に彼らは「人の道」を語ることが可能だと思い込んでいる。なぜなら会社で一番エライし、その、あれだ、人生経験とか月商とか、自信を裏打ちする理由には事欠かない。
たとえその価値観が、自己の矛盾を覆い隠すために編み出されたいかがわしい代物であったとしても、「人の道」を説き、他者に、自分に対して善良で優しい人間であり続けることを恥じらうことなく、期待できる。大げさにいえば、それこそが経営者の素質なのだ。
違う側面もある。
独善的な価値観がもたらす最大の機能は、人を「真っ当な人間」とそうでない「人でなし」に分けることにある。
例えば先の退職者の例で、いくら「人の道」を説いて説得しても、社員が給料のために退職することになったとする。
「人の道」を説くという儀式を経てもなお、退職を選んだ社員は、その瞬間、出て行ってもらっては困る人材から、この会社から一刻も早く出て行って欲しい「人でなし」に変わるのである。
漫画でもドラマでも、それまで仲良く付き従っていた仲間が別れるシーンを見ると胸が痛くなる。ベルセルクのガッツがグリフィスの元を去るところとか、今読んでもけっこうキツい。
グリフィスはあれでいっぺんにおかしくなってしまって、その後ゴッドハンドになるのだが、あの時、夕日に立つガッツの後ろ姿にグリフィスがこう言えば、また違った展開にもなっただろう。
「今まで世話になった恩を忘れたのか!
大人ならちゃんと筋を通して辞めろ!
お前は人としておかしい!」
こうして、振り返ったグリフィスは呆然とするキャスカやジュドーたちとほんわか鷹の団ライフを楽しむのである。
チャンチャン

- 作者: 稲盛和夫
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