岡本喜八の「大誘拐」を初めて見たのは小学生の頃だった。まだ映画をテレビで放送していた時代で、夜のロードショーで見たのだ。
映画の中で、老婆が指を一本立てる。「100億や」。
緊張感が破裂して、滑稽さに踏み込む。その瞬間のことを、よく覚えている。緊張、解放、滑稽、子供がそれら全部を一瞬で受け取ったのだから、岡本喜八の罪は重い。
ところであの頃、私の最大の不幸は自転車を買ってもらえないことだった。祖父のママチャリがある、それに乗ればいい。親の論理はそういうものだった。バックミラーのついたママチャリで仲間の輪に駆けつける少年の情けなさを、親は理解しなかった。少年のほうも、その情けなさを気にせずにはいられなかった。それが私という少年だった。
あの当時、自転車を持たない少年にとって、家庭の秩序は暗い影のようだった。どこにいても、誰といても、何か甘暖かく柔らかいものが、頭の上を覆い隠しているような気がした。
そこに冒頭のシーンである。「100億や」。少年は興奮した。「おもしろくなるぞ」という予感に胸がはじけそうだった。秩序が壊れる音がしたのだ。重苦しい屋根に、穴が開いていた。
映画を見ていない読者諸兄のために少しあらすじを紹介しておこうと思う。
紀州の莫大な山林を所有する刀自と呼ばれている老婆がいて、三人組の若い男たちがその刀自を誘拐する。彼らの目的は身代金の5000万円だった。その額を聞いた刀自は激怒する。痩せても枯れても大柳川家の当主である自分がそんなはした金でやり取りされたら末代までの恥さらしだというのである。そしてこう言い放つ
「100億やで、ビタ一文まからんで!」
気がつくと誘拐犯たちは丸め込まれていた。脅迫状を送り、その金額に警察もマスコミも驚愕する。本部長(緒形拳)は刀自を恩人と崇める男だが、非常に頭がキレる。刀自を家族と話させろ、と犯人に要求する。それに対し、刀自が取った手段がテレビを使った前代未聞の「誘拐被害者のテレビ放送」だった。
このシーンから、映画は祝祭に踏み込む。
刀自がテレビカメラの前に立った瞬間、何かが変わる。それまで事件を外から眺めていた観客の視点と、劇中の日本国民の視点が、その瞬間に完全に一致する。私たちもまた、刀自の劇場の観客として組み込まれてしまうのだ。
それ以降のシーンはどれも、ユーモアと幸福に満ちている。100億円を工面するために刀自の一族が資産を売り飛ばし、バラバラだった親族が一丸となって奔走する。最後に彼らはおにぎりを頬張る。観客は純粋に「良かった」と思う。その100億円がもうすぐ誘拐犯に奪われるのだ、ということに、気づきもしない。
私は、テレビで放映する度にこの映画を見て、大人になってからも、TUTAYAのDVDで借りて見て、恋人と見て、一人で見て、前にPrimeVideoに入っていたので見たので、何度も見ているが、見る度に発見がある。本部長が部下の報告を受け取るシーンだ。
奈良の山中に犯行にうってつけの家屋があるというのである。しかし―――「テレビがないんです…アンテナがないのを確認しました…残念です」嶋田久作演じる新米刑事が言う。言っている間本部長は、黙って彼の報告を聴いている。カメラはその表情を映さない。刀自の放送はラジオでも放送されていた。テレビの有無がすなわち犯人の否定にはならないのに、本部長は黙っているのだ。そして、「残念な話いちいち持ってくるな。もういっぺん行ってこい」と彼をあっさり追い出してしまう。
おそらくだがこのシーンの時点で本部長は真相に気づいているのだろう。だが自分は刀自を裏切れない。それでも部下が真相を明らかにするのであれば、それは仕方ない。という様子に、なっている―――あるいはどうとも解釈が成立するように巧妙に計算されている。
一族も、警察も、マスコミも、気がつけば全員が刀自の劇場の中にいる。そして映画の外にいる私たちもまた、祝祭の観客として、いつの間にか組み込まれている。
これが、私がこの映画を好きな理由だと思う。
祝祭というものは、そういうものだ。気づいたら始まっていて、祝祭が行われている間は、その仕組み構図などという野暮なものに誰も捕らわれない。100億円が失われても、誰も悲しまない。おにぎりを頬張る一族を見て、良かった、と思う。樹木希林の演技を見て笑っている。そして気づいたら終わっている。
私にもそういうものがあった。学園祭の始まる前と最後の夜とか、ブラック企業の無茶苦茶な案件をやってた頃の深夜2時の空気とか、夢中で音楽を作っている時間とか、そういう後先考えない狂奔と祝祭の日々があった。そして今となっては、それらは全て失われた。
