四天王寺で定期的に行われる古本市に行った。境内に古書店のテントがたくさん張られていて、その中に即席の書棚が木々のように生えている。昨日降った雨がテントの足元に水たまりを作っているから、棚を移動するたび、水を跳ね上げないようにそっと足を動かさなくてはならなかった。
前にも書いたことだが、僕は本を読めない。最後に一冊の本を読み切ったのがいつだったか、ほとんど思い出せない。だから古書市に出かけること自体が矛盾なのだけど、こうやってよすがにすがるように、来てしまうのだった。ちょうど春の嵐が来ていて、空は晴れているのに時々強風が吹いて、テントがギシギシと鳴った。
奇妙な話だが、本を読めない僕も、本を「探す」ことはできる。最近、一日10行ほどのペースで読んでいるポール・オースターとか、解説書の序文だけを読んで良かった道元の正法眼蔵に関する本だとか、そういった雑多な興味を棚の前で思い出して、さもそうした本を読めるかのように振る舞うのである。買った本は、長い間机の上に置かれて、ほとんど読まれないままそのうちブックオフに引き取られていくから、本の運命としては何の足しにもならない。
境内の奥まったところにテントすら張られていない一画があって、100円均一のワゴンセールをやっている。古めかしいC言語の本だとか、チーズはどこへ行った?みたいな本が箱に突っ込まれているのだけど、テーブルから抜け落ちたのか、何冊かが泥だらけの地面に落ちていた。九〇年代のヨーロッパ情勢に関する新書が、表紙を下にして泥に埋まっている。僕は著者がどれほどの気持ちをかけてその本を書いたか、想像ができた。できたが、それ以上のことは何も起きなかった。風が吹いて、遠くのテントが悲鳴のような音をたてた。
その光景を見た後、最初に見たテントに戻って小林秀雄を買った。文芸批評ではなく、戦前のものも含む軽いエッセイ集のようなもので、これなら少しは読めるだろうと思ったのだった。
西大門のところで座って、袋から取り出した本を少し読んだ。新進気鋭の評論家としてブイブイ言わしてる32歳の小林秀雄が文士劇に出る話があって、最後はこう締めくくられている。
あとは書くにも当たるまい。衆人の期待を裏切って、僕が名演をした事は見た人が知っている筈である。東京でもやるから、見たい奴は勝手に見たらいいだろう。
小林秀雄にもこんな可愛い頃があったんだな、と思って少し微笑ましかった。
帰る道すがら、泥の本を思った。私にはあの分量を書く能力も資格もない。もちろんそうやって本を作ることもできない。いつも途中で、言葉は上ずって、何もないところに留まり、最後には嫌気が差してやめてしまう。だから、こうやって断片のような文章をネットに残すことしかできていない。それでもそれを10人ほどの誰かが読んでくれる。泥に埋まる資格すらない人間には、過分なことだと思っている。
