megamouthの葬列

長い旅路の終わり

嘘つきゾス

東京から来た業務委託の若者が、開口一番こう言った。

「大阪オフィスは元気がないっすねー」

私は返事に困った。元気がないというより、午前10時の静かなオフィスで各自が黙々と仕事をしているだけだったから、何と答えればいいのかわからなかった。

「つまんねーならこんなのつまんねーよ!って声出して仕事したらいいと思うんすよねー」

と彼は続けた。

その日の午後、彼は自分が客先でどんな提案をしてきたかを話してくれた。企画書は作らない、とWebディレクターの役回りの彼は言った。今日持っていったのは紙一枚で、そこには「大地」とだけ書いてあった。それがバシーンとハマった、ということだった。

私はしばらく「大地」という二文字を頭の中で転がした。こいつ薬でもやってんのか、と思った。


彼のような人間の類型が集まると、テンションだけで仕事するようになる。私は便宜上「ゾス系」と呼んでいる。正式な語彙かどうかは知らない。ただ職場に一人か二人は必ずいる、あのタイプの人間を指す言葉として、これ以上適切なものを持っていない。

テンションとノリで商談をまとめる。根拠のない自信で場を支配する。細かいことを気にせず突破する。そして不思議なことに、それで仕事が回る場面が確かに存在する——少なくとも、本人はそう信じている。

私はこういう人間が、生理的に苦手だ。嫌いというわけではない。有能だということも、ある程度は理解している。私のような鬱病気質の人間がまわりに暗いムードを漂わせるのと比べたら、例え無根拠でも明るく、前進するエネルギーを周りに振りまくほうが、はるかに有効だろう。だから、この嫌悪には嫉妬も混じっている。ただ、私個人としては、彼らと同じ空気を長時間吸っていると、何か根本的なところで居心地が悪くなる。たとえるなら、生き死にを考えているときに、隣でイッツ・ア・スモールワールドをエンドレスで流されているような感覚だ。そこには常に絶妙な「嘘っぽさ」が漂っている。

なぜ、嘘っぽいのか、少し考えてみる。

一つの仮説は、ゾス系の振る舞いが本質的にコートシップ行動だ、というものだ。孔雀が羽根を広げるのと同じ機能を、彼らはオフィスでやっている。「大地」と書いた紙一枚は、企画書ではなく羽根だ。正確さより、勢いの質と量が重要なのはそのためで、ディスプレイとして機能しさえすれば、内容は問題ではない、ということだ。

興味深いのは、彼らがある程度それを自覚していることだ。演じているとわかっていて、気にしない。これは欺瞞ではなく、ある種の割り切りだ。

そしてその割り切りが機能する文脈が、今の日本には確かにある。


バブル崩壊からおよそ30年、日本は構造的に負け続けている。製造業は空洞化し、ITでは周回遅れになり、給料は上がらず、人口は減り続けている。これだけ負け続けた時代に、テンションを上げて仕事をするというのは、冷静に考えると相当に奇妙なことだ。

私たちは根本的に誰からも必要とされていない。製造業は中国や東南アジアの国々に、金融は欧米やシンガポール、ルール作りはあの横暴な大統領親分にまかせてしまえばいい―――鬱病の私などは極端にそう考えてさえいる。私たちのやってることは全て無駄で、私たちの生とは、つまるところ慣性のようなもので、ひっくり返った虫が足をバタバタすることに近いのではないか、私の世界観とはそういうもので、その世界の中で元気な人間を見ると、嫌悪というより「信じられない」と思ってしまうのだった。

ゾス系が元気でいられるのは、この国の負けが見えていないからかもしれない。あるいは——見えていても、直視しないことを選んでいるのかもしれない。負けを直視しないことが、この国の組織を動かし続けるための、半ば集団的な合意になっていて、ゾス系はその誠実な体現者なのだ、という見方もできる。

だとすれば、イッツ・ア・スモールワールドが流れ続けるのは、偶然ではない。あの音楽は、止めてはいけないのだろう。


かつて、この世界にもその音楽から逃げられる場所があった。

インターネットの、特に2000年代までのテキスト中心の空間は、ゾス系のコートシップがほとんど無効化される特殊な場所だった。顔も声も体温もノリも関係なく、テキストと論理だけで殴り合える場所。テレビで羽根を広げていた人間が同じことをしようとすると、匿名の文章おじさんたちに論理で袋叩きにされた。居心地が悪い人間にとっては、数少ない楽園だった。

その楽園が失われたのは、インターネットがリアルの延長線になったからだけではない。問題は「数が全てになった」ことだ。テレビのスターは多数決で選ばれたわけではなかったが、ネットのインフルエンサーは明確に数で選ばれる。そうなると、ノリとテンションのほうが圧倒的に有利になる。

しかも楽園を乗っ取ったのは、ゾス系ですらなかった。ゾス系には少なくとも、演じているという自覚と、場合によっては問題解決能力が伴う。乗っ取ったのはその上澄みだけを掬ったような、コートシップのディスプレイだけが残って実体が空洞になった、「テンションの高い無」とでも言うべき、名前をつけるのも難しい存在たちだった。非モテの楽園は、無にすら負けたのである。


では、イッツ・ア・スモールワールドに乗れない人間は、一体何をしたいのか。

緩やかに滅ぶことを選ぶのが賢明かといえば、そうとも言えない。負けを直視したところで、何かが変わるわけではない。冷めた目で見続けることに、実利はない。

正直に言えば、沈没していく客船の中で「どうせダメだからここでピアノでも弾いてようぜ」と言っているのが私だ。それはそれで一つの態度ではあるが、本当に船が沈みかけているとき、頼りになるのはそういう人間ではない。わずかな希望を信じて救命ボートを探し続ける人間のほうが、少なくとも実際的だ。ゾス系がそうかどうかはわからないが、少なくとも私よりは船を沈めない可能性がある。

答えは出ない。ただ問いだけが残る。



大地の彼は、2、3ヶ月後には姿が見えなくなっていた。大地がバシーンとハマり続けたのかどうかは、私は知らない。おそらくそうではなかっただろう。

でも彼が消えたあと、私はふと考えた。

彼も私も、やっていることの本質は同じではないか。滅びいく世界で、何かにすがって、生存を継続しているだけだ。彼は「大地」にすがり、私はテキストと論理にすがっている。すがっているものが違うだけで、構造は同じだ。

イッツ・ア・スモールワールドは今日も流れている。私はその音楽が苦手で、乗ることができない。ただそれだけのことなのかもしれない。