megamouthの葬列

長い旅路の終わり

エンジニアの技術と給料

お金、それも給料の話は、あさましい、ということになっている。婚活パーティーでもなければ隣の席の人間がいくら貰っているか堂々と聞くこともできない。

かつてGoogleで、自分の給料を全社員が見られる共有スプレッドシートに書き込み、公開を促した女性が現れてとんでもない騒ぎになったことがある。その行為の是非はともかく、不透明さによって守られていた上層部の平和は破られ、結果として彼女が社内で干される原因にもなったようだ。

このように給料の周りには、常に不透明な霧があって、その秘密は厳然と守られている。一方で、物価が上昇し、新卒の初任給が30万に達し、ボーナス平均が100万を超えたなどというニュースが連日報道されていて、先月のアフィリエイト収入が240円で、4月から素寒貧の無職になることが決定しているこのブログの主としては、気が気でない。

今こそ、私たちは給料の話をしなくてはならないのかもしれない。なぜなら、そこには、エンジニアを縛り付ける幾重もの欺瞞と、それ以上に厄介な自尊心の問題が横たわっているからだ。


さて、エンジニアの給料についての最も無邪気な世界観は「技術力が上がれば給料も上がる」だ。若かりし頃、私もどこかでそう信じていた。

AtCoderの色がそのまま給料に反映されると考えるほど無邪気でなくとも「同僚をたくさん助けられるぐらい技術力が高ければ」とか「最先端のフレームワークを使いこなせれば」とか「ドメイン知識に詳しくなれば」とか、技能・知識的な向上が多少なりとも給料に反映するはずだ、というモデルは多くのエンジニアが少なからず内面化しているように思う。

このモデルの秀逸なところは、給料とスキルという二つの異なる価値を、一つの「自尊心」という源泉に統合して扱える点にある。技術を磨くことが、そのまま職場での自分の価値を高め、同時に銀行口座の数字も増えていく。このシンプルで美しい因果関係を信じることで、私たちは「金儲け」というあさましいゲームから離脱し、「自己研鑽」という高尚な響きのある世界へと昇ることができる。それは、まるで修行に励んだ僧侶が、尊敬を勝ち取り最後には報われて解脱に至る、というのに似た神々しい物語だ。

しかし、(特に中小企業では)ここに残酷な構造的制約が立ちふさがることが多い。現実には技術力は、給料を「上げない」理由には十分活用される(まわりの足を引っ張っているから)が、「上げる」理由にはなりにくい。なぜなら、個人のスキルよりも先に、事業の粗利があって、そこが給料の上限を決めているから、つまりは会社が立たされている「交易条件」——どの財布に手を突っ込んで商売をしているか、という経済的立ち位置が給料の上限を決定しているからだ。

例えば圧倒的な利益率を叩き出すSaaS企業のエンジニアと、人月単価を買い叩かれる多重下請けの末端にいるエンジニア。後者がどれほど超人的なアルゴリズムを書き、不眠不休で技術を磨いたとしても、技術を金に変える能力を組織がもっていない以上、その給与が前者の新人プログラマに追いつくことは構造的に不可能だ。

この自尊心を中心とした給料とスキルの正のループが絶たれると、やっかいなことに「被害者意識」が生まれる。
技術を磨き、自尊心が高まれば高まるほど、本来受け取るべきだと感じる「自分の価値」と、構造的に決定されている「額面の数字」のギャップが開いていくのである。
自尊心の源泉をスキルと給料で一つにまとめてしまったがゆえに、給料の停滞や、転職サイトで見かける同一スキルの想定年収といった情報が、自分の技術、ひいては存在そのものへの否定として突き刺さっていくのである。
技術者の高まった自尊心を、所属する組織が受け止めきれなくなったとき、その軋みは「正当に評価されていない」という怒りに変わるというわけだ。

私としては、こうなってしまった以上、より儲かっている会社に転職してもらうのが、本人にとっても、会社にとっても有意義なことだと思うのだが、経営側としてはそういう訳にもいかないのか、自分の役員報酬以上の金額を出すのは我慢ならないからか、自社のエンジニアの給料が低い理由をあれこれでっち上げ始める。

例えば、よく会社側が持ち出す理屈が「事業への貢献」という言葉だ。「君の技術は確かにすごいが、うちの事業に貢献できていない」というアレである。今までの議論を見ればわかるようにそれは大抵「事業モデルそのものの交易条件の悪さを、現場のエンジニアの努力で埋め合わせろ」という無理難題にすぎないのだが、エンジニアというのは商売や事業モデルに疎いことが多いので、こんな無理な言いがかりもある程度の説得力を持ってしまうのである。

そして、哀れなエンジニアは健気にも、当社で実行可能な(そして多くはマニアックな)事業案みたいなものを考えたりするのだが、そもそも事業をやる側は、技術的視野もなければ、勝負できるマーケットも持っていない(持っていればもっと具体的な話になるはずである)から、そういうところに提案を持っていったところで、「これは一体何?」「どうやって売るの?」「どうやったら儲けられるの?」という当惑とともに切り捨てられて終わりである。

私が思うに彼らが真に求めているのは、自分たち以外が容易には入ってこれない魔法のカーテンに遮られた、金持ち顧客が充満しているマーケットそのものである。技術はその魔法を構成する一部にはなるかもしれないが、それはビジネスモデルや営業戦略を含めた組織全体の戦いであって、少なくともエンジニア個人に「これを使ってなんとかしろ」と求める話ではないはずなのだ。

だから、もし「チミもさあ、ビジネスというものの中でだね、その技術力をどう生かしたらいいか、考えてごらんよ、それで売上がたてばさ、もちろん給料だってガンガン上がっていくわけだからね」と上から目線で言われた場合は、「なるほど。では事業部長にしていただいた上で、人事権その他諸々の権限とともに、必要な予算をいただけるということでいいですか?」とでも軽く返しておけば良いのである。

話が逸れた。

さて、転職すれば給料は上がるのだから、転職すればいい、という結論にしかならなかったわけだが、ここにも二つほど、身も蓋もない話があるのでしておきたい。

一つは転職しても技術が独立に評価されて給料が決定するわけではない、という話だ。面談に来たエンジニアの給料を内示する時、彼らは必ず「前職の年収」を考慮する。転職サイトやエージェントがいくら「相場」を喧伝しようが、実際の内定通知書に並ぶ数字を支配しているのは、技術力ではなく履歴書に書かれた過去の数字である。源泉徴収票の提出という事務的な手続きがある以上、前職という「財布」の大きさが、次の場所でのあなたの価値さえも規定し続けるのである。

そしてもう一つの身も蓋もない話——それは年齢という壁だ。技術が給料を規定する「チケット」として機能するのには、残念ながら明確な有効期限がある。

30代までは、技術というチケットで「より大きな財布」へ移動できる可能性が残されている。しかし、40歳、あるいは私のように46歳のおじいちゃんになってしまった場合、景色は一変する。 そこではもはや、どれほど精緻なコードを書けるかという「精度」は、決定的な価値を持たなくなる。スキルチェックや職務経歴とは無関係に、転職サイトの募集一覧から、Reactやk8sのような単語がすっかり消えて、paizaの必要ランクはFになり、上から読んでも下から読んでもSESとしか読めない企業だけが残るようになる。

雇う側がベテランに求めているのは、技術ではなく「人柄」や「人間力」といった、計量不能な「ソフトスキル」の類なのかもしれない。実際、これは最近の私の場合だが、現場の人々が概ね好意的な理由は、私の技術に対する畏敬の念というよりは、「ベテランなのに物腰が柔らかい」「現場の空気を乱さない」といった、扱いやすさに対する安堵に近いことが多いのではないかと思っている。 「技術で食えるのは40歳まで。あとは人柄」——今作ったこの残酷な格言は、技術的な自尊心を積み上げてきた私の一部分にとって、ある種の死刑宣告のようにも響いている。


このように、はるか高みのGAFAとそこに類するところ以外では、技術力が給料ができるだけ結びつかないようにできているのが世間である。その構造が間違っていると叫ぶことは可能だが、そうしたところで、私の4月からの職場が決まるわけではない。ならば、私たちが取るべき最後の生存戦略は、「技術を自尊心に結びつけることを辞める」ことかもしれない。

思えば、給料(市場価値)とスキルを一つの自尊心に統合してしまったことが、すべての悲劇の始まりだった。その統合モデルを採用している限り、私たちは「年収が低い=技術が低い=人間としての価値が低い」という、逃げ場のない三段論法に自分を追い込み続けることになる。

40歳を超えた今、「エンジニアの技術とは年収とは特に関係のない、いい匂いがするとか、雑談がおもしろいとか、そういう類の能力である」と考えることができたなら、もし市場から「あなたは年収400万円で平均的ですね」と告げられたとしても、すんなり受け入れられそうな気がする。なぜならそこには自分の20年間の研鑽に対する否定などない、ただ単に、「平均的な人格の商品」が「平均的な価格」で取引されているという、冷徹な事務作業が行われているだけだ、と考えることができるからだ。

もちろん、個人的な「誇り」として技術を愛し続けるのは自由だ。週末に誰も見ないような美しいコードを書くことや、深遠な型パズルに挑むことは、依然として素晴らしい余暇であり、魂の救済になり得る。しかし、その誇りを給料袋の中に、あるいは他人の評価の中に探すのはもうやめにすべきなのだろう。自尊心の源泉を「他人が値付けする市場」から切り離し、自分の内側にそっと隠しておくことができれば、私たちはもう少しだけ、この身も蓋もない地平を軽やかに歩いていけるはずなのだ。


2026年の椅子取りゲーム

商談サイトに掲載されている案件をクロールして自動的にAIで提案書を作成、提出するという人の話を聞いて、どうにも反応に困って「そのメンタリティが素晴らしいですね」と答えたのだが、どうも先方の望む答えではなかったようで、苦笑いされてしまった。

「それはひどく失礼ですね」と答えれば良かったのか、あるいは「それこそが現代の営業ですね」と言うべきだったのか。

とはいえ、虚無に、曖昧さと人間離れした楽観をコーティングしたような、あのAIの提案書を、ほとんどそのままノールックで提出して人間に読ませるというのは、シンプルにひどい行為に思えた。同時に「見込み客」という、金をちらつかせば、無料で家の設計図ぐらいまでは書いてもらえると無邪気に信じているようなあの連中には相ふさわしい扱いにも思えた。つまりは、私にはその行為に善悪どちらの判断もつかなかった。だが、少なくともこの時代に、そう一方に振り切ってしまう思い切りの良さだけは羨ましい、と思ったのだった。

そういうメンタリティは私にはない。世の中は椅子取りゲームなのだから、少しでもいい生活をしたければ、競争を勝ち抜いて、何をやってでも椅子を、高い収入が得られるポジションを勝ち取らなければならない、というのに、どうにも必死になれない。

一つは、今までそういった類の努力をほとんどしてこなかった、ということがある。そうした椅子は努力して、その能力を得た者に自然に与えられるものだという信仰をもっていたからだ。プログラマという椅子だけを考えれば、技術動向に目を光らせ、次から次へとやってくる新しいフレームワークやトレンドに興味を持ち続けられてさえいれば、能力のほうはどうにかなるわけだから、ようするに私は普通に生きるだけで「椅子は常にある」と思い込むことができたわけだ。

最近そういう実感が急速に失われていくのを感じている。自分で書くコードの量が明らかに少ないし、おかげで何かを作れる、作りたいという感覚が薄れていって、勉強すべきフレームワークやライブラリも目につかなくなっている。マネジメント的な仕事を試しにやってみたけど、何しろコードを書かないものだから、自分は代替可能で、いてもいなくても変わらないのではないか、という思いが日増に強くなっているのだった。

必死になれないでいると、チャンスが遠くなっていく感覚もある。 某転職サイトのカジュアル面談で、和やかに談笑していた時のことだ。

「違うポジションの募集もしているんですが、◯◯さんはそちらのほうがご希望ということですよね?そちらに応募されなかったのはなぜですか?」

面接官は無邪気に問いかけた。だが私のログイン済みの画面からは、どうやってもそのポジションの募集が表示されないのだった。「年齢制限かなにかですかね?」私は内心の動揺を隠しながら、冗談めかして言った。面接官は気まずい表情を浮かべ、その話を強引に打ち切った。

私の座るはずだった椅子は、私が画面を開くよりずっと前に、アルゴリズムの裏側で静かに消去されていたのだ。能力を証明する機会すら与えられない透明な排除。きっつー

そう考えれば、アルゴリズムにはアルゴリズムを、という前述の某氏の行為も正当化されるのかもしれない。
彼らはアルゴリズムで椅子を隠し、こちらはアルゴリズムで虚無を投げ返す。そこにはもはや人間の介在する余地などない、というわけだ。それでいいのか?と正直、思ってしまうのだが。


最近、よく夢を見る。私はかつてのようにコードを書いている。作っているのは、何の変哲もないWebフォームの作成システムだ。ドラッグアンドドロップで自在にフォームを組める、あの懐かしいUI。最新のWebコンポーネントを使い、Shadow DOMでカプセル化すれば、どんな複雑なページにだってシームレスに組み込める…… 「これこれ、これなんだよ」 夢の中の私は、技術的な課題を鮮やかに解決した万能感に震え、ワクワクしながら目を覚ます。

目覚めて布団の外に出て、1月の冷たい空気に覆われると、冷たい現実が明らかになる。そんなものは、もう誰も求めていないのだと。 AIが生成した最適化済みのLPには、あらかじめ最適化された入力フォームが備わっており、そこに「手触りの良さ」や「拡張性」を求める人間などもうどこにも存在しない。

かつて椅子を支えていた四本の脚——技術、情熱、需要、そして未来——のうち、いくつかはもう折れてしまっている。それを認められないまま、私は消えた椅子の残像を追いかけて、夜な夜なコードの夢を見ているのだった。

いっそ、社会から求められなくなった瞬間に、ロウソクの火が消えるように自然に生も終えられたら、どんなにいいだろうと思う。 誰の椅子も奪わず、誰からも椅子を奪われず、ただ役割を終えたという静かな納得とともに、尊厳を保ったまま消えていく。それは、敗北ではなく一つの完成ではないか。

だが現実には、椅子を奪われた後も、私たちの肉体はしぶとく生き長らえてしまうだろう。空席のない部屋で、透明になった自分を抱えながら、明日のパンのためにまた虚無を塗り固めたような「提案書」の作成ボタンを押すのだろうか。


残業キャンセル界隈と企業カルチャーの死

news.yahoo.co.jp

Z世代が残業をキャンセルして大変らしい。それでなくとも、理由も告げずに有給休暇をとる、注意や指摘をハラスメント扱いする、さらにはそれらが高じて、あろうことか、信じられないことに、給料が安いという理由で会社を退職するというのである。

まさに世も末だ。滅私奉公、24時間働けますか、会社は家族、血の小便が出るまで仕事しろ、といったかつての「美しい国」の労働倫理はどこへ行ってしまったのか。高市早苗でなくとも嘆かずにはいられないというものだ。

この手の話は、「最近の若者は合理的すぎる」とか「タイパ至上主義だ」という世代論に落ち着きがちだ。しかし、この断絶の正体は「合理的かどうか」などという生易しい話ではないように思う。少なくとも私たちが真に苛立ち、恐れさえ抱いているのはそこではない。

Z世代の逸話を聞くたびに私たちの胸がうすら寒くなるのは、自分たちが長年積み上げ、守ってきた不文律――組織のカルチャーを身体化するという作法――つまりは「企業のカルチャー(と経営者が呼びたがる『空気』)を読んで働く」という作法が、新しい世代には全く継承されていないのではないかという疑念だ。

ここで、私たちのような氷河期世代が、いかに「空気」で仕事をしてきたかということを正直に告白しなければならない。私たちは、なぜあんなにも理不尽な残業や転勤を受け入れてきたのか。
それは給料が高かったからでも、高潔な責任感があったからでもない。単に「そうするのが当たり前」というカルチャーに依存した強迫観念があったからだ。 契約書にない業務でも、理不尽な要求でも、上司のちょっとした「説得」程度で、「自主的に」行う。私たちをそうさせるために機能していたのが空気であり、美辞麗句を除外した企業カルチャーだった。

具体的に思い出してみてほしい。 なぜ、日本の会社は執拗に飲み会を開催したがるのか。なぜ、貴重な予算を投じてまで社員旅行や運動会を企画するのか。あるいは、一部のWeb系企業などで見られる、若手社員を巻き込んだ内輪受け全開のドッキリ動画のような、はたから見ればクソみてえな茶番になぜ付き合わされるのか。

これらはすべて、カルチャーという名の共同幻想に力があると信じて疑わない人間たちの仕業だ。 同じ釜の飯を食い、同じジャージを着て汗を流せば、理屈を超えた一体感が醸成され、個人の自我の境界線は溶け落ち、「会社」という大きな物語の中にみんなで融合できる、といった極めて宗教的な儀式なのである。
かつての私たちは、その儀式の意味を(無意識にせよ)理解していたからこそ、喜んで、あるいは苦笑しながらもそれに参加し、その「空気」を多少なりとも内面化してきた。

Z世代からすれば、なぜそんなバカげたことをしていたのか?と思うことだろう。奇妙なことだが、それが、「有能」になるための条件だったからだ。

「教師や上司といった権力者の望むことを先回りして考え、そのように振る舞う」ことを優等生的というならば、「有能」であるということは、集団の中で浮かび上がらずにそれをやってのけ、場の支配力をもって集団をまとめ、周囲に優等生的な振る舞いを自然に認識、伝播させていくような存在のことだ。(つまり漫画に出てくる真面目な風紀委員タイプは優等生ではあっても、「有能」とは言えないということだ。)

真に有能な優等生とは、権力者の論理を単に「理解」して従うのではない。それを「摂取、内面化」し、あたかも自分自身の内発的な動機であるかのように振る舞うことができる。 「先生や部長が言うからやる」のではない。「私がそうすべきだと思うからやるのだ(そしてそれは偶然にも権力者の意向と一致している)」という顔をして、涼しい顔で周囲を巻き込んでいく。組織の論理を完全に身体化し、組織という生き物の一部として機能する。これこそが、かつて日本企業が何よりも愛した人材像だったのだ。

そこまで完成されていなくても、かつての若者の多くは、少なくとも組織のカルチャーを「理解」しようとはした。内心では舌を出していたとしても、組織の空気を読み、調整役として立ち回る「準・有能」として振る舞うことで、居場所を確保してきたのだ。


さて、話を戻そう。 Z世代が残業をキャンセルし、権利を主張する様子を見て、氷河期の生き残りの有能たちが感じる居心地の悪さの正体はここにある。 Z世代は、彼らが必死で身につけた「組織の論理の身体化」という高等技術に見向きもしない。それどころか、最初からそのゲームに参加する気配すらない。

ここでようやく、冒頭の騒動に対する一つの残酷な仮説が導き出される。 残業をキャンセルするZ世代の問題とは、単なる労働条件や世代間ギャップの話ではない。 それは、「Z世代が企業カルチャーを理解しない(あるいは、理解しようともしない)」という、組織論の根本的な崩壊の問題なのだ。

では、なぜ彼らは理解しないのか。 ここで、身も蓋もない一つの仮説を提示しなくてはならない。 それは、そもそもその会社に「カルチャーを身体化し、理解する能力のない新人が入社している」という可能性についてだ。

なにしろ、今は空前の人手不足である。 就職氷河期を生き抜いた私たちの世代とは、前提条件がまるで違う。かつては、中小企業であっても、買い手市場の中で「空気」を読み解くリテラシーの高い優秀な人材を選り好みして採用できていた。 そして何より、かつてはカルチャーという踏み絵を踏めない人間は、居心地の悪さに耐えかねて勝手に辞めていった。企業側もそれでよかった。「ウチに合わなかったね」で済ませ、また新しい「有能」を採用すればよかったからだ。

だが今は違う。猫の手も借りたい人手不足の中で、企業はもはや「カルチャーに合わない人間」を追い出す贅沢など許されない。 喉から手が出るほど労働力が欲しいから、異物であっても抱え込まざるを得ない。追い出せないからこそ、「Z世代がカルチャーを理解しない」という問題が、これほどまでに表面化し、経営課題として突き刺さっているのだ。 「カルチャーの不理解」は、若者の怠慢ではなく、単純な能力と採用のマッチングエラー、そして企業の背に腹は代えられない懐事情の結果なのかもしれない。


だが、もう一つ、さらに深刻で救いのない可能性についても触れなければならない。 それは、彼らに能力がないのではなく、「そもそも、今の企業カルチャーには、内面化するほどの価値がない」と見抜かれているという可能性だ。

かつて、企業カルチャーへの同一化は、終身雇用という「救済」とセットだった。魂を売る代わりに、一生の生活が保障され、だからこそ、滅私奉公という信仰は成立した。 しかし今、ネットを開けば、その信仰がもはやカルトと紙一重であることが白日の下に晒されている。

品川駅で「今日の仕事は楽しみですか」と問いかけたポスターが嘲笑され、強固な組織風土を誇った名門・東芝が「チャレンジ」の名の下に不正会計に手を染める。日本電産(現ニデック)のようなカリスマ経営の企業ですら、その強権的なカルチャーの歪みが取り沙汰される時代だ。 「企業カルチャー」という美名が、しばしば経営者の暴走を正当化するツールや、従業員を安く使い潰すための麻薬として使われていることを、Z世代は生まれた時からネットを通じて知っている。

そんな彼らに向かって、「この会社のカルチャーは、君たちが内面化するに足る素晴らしいものだ」と信じ込ませることが果たして可能なのだろうか? 「カルチャーを理解しない」のではなく、「理解するに値しないと判断し、キャンセルした」というのが実態に近いのではないか。

私は、ここに、様々な経緯を経て企業カルチャーがほぼ経営者と株主のものになってしまった、という事実があるのではないかと思う。経営者の孤独を癒やすため。あるいは、経営者の思いつきや株主の欲望を「崇高な理念」に変換して、下々の人間に効率よく実行させるための装置に成り下がってしまっているのだ。

Z世代は、その欺瞞を敏感に嗅ぎ取っているのかもしれない。 「なぜ社長の自己満足や、株主の利益のために、僕のかけがえのない人格の一部を『内面化』までして捧げなきゃいけないんですか?」 彼らの態度は、そう問うているようにも見える。そしてその問いに対して、胸を張って反論できる人がどれだけいるだろうか。

もちろん、カルチャーを全否定し、全てを契約書とマニュアルだけで縛るギスギスした組織が良いとも思えない。それはそれで、働く人間にとっては地獄のような監視社会だろう。

だから今、私たちが考えるべきなのは「どうやって若者にカルチャーを理解させるか」ではなく「社員を含めた全員が幸せになるためのカルチャー」ではないだろうか。

経営者のための洗脳ツールでもなく、選別のための踏み絵でもない。 そこで働く人間が、互いに敬意を持ち、少しでも健やかに、そして誇りを持って働くための共通言語としてのカルチャー。 もしそんなものが本当に存在するのなら、Z世代だって喜んで受け入れるに違いない。

残業を拒否して帰っていく彼らの背中は、古いカルチャーに対する「キャンセル」の通知だ。 その通知を受け取った私たちが、次にどんな「新しい答え」を提示できるのか。それとも提示できずに契約社会の砂漠を歩くのか。 まあ、そんな理想的なカルチャーがあるなら、私もグレずに済んだのかもしれないのだが。