朝食を食べる。焼いた食パンに目玉焼きとスライスチーズを載せたもので、毎回同じように作って同じように食べている。毎日、律儀にそうしているのは主治医にそうするように言われたからで、自分の意思ですらない。
食器を片づけると、書類と抗鬱薬のパッケージで乱雑になった机の上に、聖域のように置いてある黒いThinkPadを開く。五世代前のCPUが唸りを上げて、メールをチェックする。仕事に関するものは何もない。だからベッドに戻る。二十年以上前に買ったマットレスが、最後の義務感のように体を包んでくれて、私はまた眠りに落ちる。
昼過ぎに目を覚まして、枕の下においておいたiPadを探す。こうしておけば寝返りをうってiPadを壊すことがないと信じているのだ。取り出してTikTokをスライドする。中国訛りのアナウンスに合わせて、若い娘たちが順番に踊っている。彼女らがここでこうして踊っている経緯も、前の動画の娘との違いも何もわからない。わからないまま、何十人も見送り続けて低位株の値上がり予想グラフに行き着いて、アプリを閉じる。
こうなってしまったのは理由がある。
私は無趣味な人間だった。美食にも旅行にも読書にも、心が動かない。強いて言えばインターネットが趣味だった。ふと現れる個人のブログの文章、新しいサービス、プログラミングに関するトリビア、例えばTypeScriptの奇妙な型定義、関数型プログラミングの蘊蓄、新しいアーキテクチャ、フレームワーク、クールなWebサービス。そういうものを見たり読んだりして、感心したり、鼻で笑ったりしていれば一日が終わった。
それが根こそぎなくなってしまった。いや、実際のところ今でもあるのかもしれないが、辿り着けないし、感じとれない。あるのは、例のAIスロップというやつで、高揚した作成者が、平然とした顔で繰り返し紹介してくる、どれも妙に長く内容のない文章で、どれもbootstrapなスタイルのWebアプリで、まるでかわるがわる踊る中国女のようだ。
こうしてベッドに横たわって、あれほど広大だったインターネットの底を、あっけなく触っていると、祖父のことを思い出した。
祖父は四十代の後半で仕事を辞めた人だった。地元の信用金庫で働いていたらしいが、突然仕事を辞め、私が生まれた時には、曾祖父の遺産と、年金と、父の仕送りで暮らしていた。なぜそんな早くリタイアすることになったのか、その経緯を説明できる人間はもう誰も残っていない。
かつての一軒家には必ず応接間というものがあって、祖父はそこにいた。革張りのソファに座り、煙草を吸いながらテレビを見ていた。映っているのはたいてい西部劇だった。馬が走り、銃が鳴り、誰かが倒れる。全てが乾ききった午後4時の西日の中で祖父はそれを何時間でも見ていた。
子どもだった私は、ただそのまま、そういう人として祖父を見ていた。一緒に遊んでくれるわけでもなく、かといって邪険にされるわけでもなく、ただ座って煙草を燻らせている。柱時計や、玄関の傘立てと同じで、そこにあってずっと動かない安全なものでしかなかった。
私の両親は共働きだったので、多くの午後の時間、私と祖父は家で二人きりだった。大人しい私は、奥の寝室でよく本を読んでいた。そして読めない漢字が出てくると、応接間に行った。私が開いたページを指さすと祖父は嬉しそうに立ち上がり、本棚から辞書を取ってきて、老眼鏡をかけたうえに虫眼鏡を当てて、項目を探してくれた。いつもたっぷりと時間をかけて、それから意味を教えてくれる。
今思えば、あれが祖父のその日の仕事だったのかもしれない。孫が来なければ、彼は何もしなくてよかった。奥の部屋で孫が一人で遊んでいる限り、彼は暇な守衛だった。持ち場はあるが、事件は起きない。日々是好日。
親族が集まる機会があって、何かのきっかけで、喫茶店の話になった。私が生まれる前の1960年代の喫茶店ブームの時に、我が家でも喫茶店をやろうという話になったことがあるという。おそらく引退してすぐだった頃の祖父はそれに乗り気になって、開店の直前まで行ったそうだ。
だが、その喫茶店の話も立ち消えになった。親族の誰も詳細は語ろうとしなかったので、おそらく騙されたか、失敗したか、それなりの金が霞のように消えて、喫茶店も幻になった。
私が生まれた頃には、既に祖父は西部劇を見ていた。過去の何かしらを孫の私に気取られることなく、そのまま20年の月日が流れた。その間、応接間の外では、長男の事業の失敗があり、親族間の金策にまつわるトラブルがあり、母の狂気じみた絶叫があり、私の家族はバラバラになった。
それでも祖父は応接間のソファーに座ったままだった。長男が泣き出しそうな笑みを浮かべて金を無心している時も、私の母が対面に座って何時間も詰問している時も、目前で、ジョン・ウェインが駆け回っている時のように、彼はそれについて何をすることもなかった。ただ、葛藤するような、悲しそうな顔をして、黙り込むのだった。
開きっぱなしにしていたThinkPadが通知音を鳴らした。私はようやく立ち上がってメールを開いた。見積もりを出した件が、大幅に縮小になって、半端仕事になるという内容だった。
これで、見込んでいた3ヶ月後の収入もふいになってしまった。机の上に置いてある国民年金の納付書の束を見て溜息をついた。
私はベッドに戻った。祖父がソファに腰掛けなおすように。
これから先のことは、だいたい見えている。厚生年金は途切れ途切れで、国民年金は雀の涙だ。今住んでいる家がどうなるのかもわからない。エンジニアとして誰からも声のかからない日は、もうすぐそこまで来ている。
まず、iPadがなくなるだろう。次にウィスキーがなくなる。たまに行く居酒屋がなくなる。そうやって順番に消えていって、最後に食パンとインスタント食品と、病院の待合室が残る。
その計算はとうに終わっていた。終わっているから、私はTikTokを開くことができる。存分に無視してやることができるのだ。中国訛りのアナウンスが絶叫し、鐘の音がなる。若い娘たちが順番に踊っている。
祖父も、こうやって目を逸らしていたのだろうか。
わからない。ただ、祖父はそのまま40年以上応接間に座り続けて、最後は病院で死んだ。
私は一度も見舞いに行かなかった。理由はあったのかもしれないが、思い出せない。家族がバラバラになったこととは関係があると思う。あると思うだけで、確かめたことはない。
私の知らない病院で、私の知らないところで、私の知らない時間に、祖父は死んだ。
葬儀には出た。86歳という年齢もあって、明るい空気だった。三人の息子やたくさんの孫に見送られているのだ。火葬場からのバスでは、親戚から軽口もでた。つまりは、そのぐらいの年齢の人間が死ねば、普通はこう思うものだ。もうやり残したことなどないだろう、と。
祖父に関してはそうかもしれない。喫茶店に失敗した後の50代の頃から、応接間のソファに埋まってから、もう彼にはやり残したことはひとつもなかったのかもしれない。
遺産があり、年金があり、仕送りをする息子がいて、漢字を聞きに来る孫がいた。応接間の外で家がどれだけ壊れても、彼の持ち場は最後まで無事だった。全ての物事が起こっている間も、彼は何も失わなかった。
何も持っていなかったからだ。
そこに無念はない。人が一人、世界から消える時に、無念すら残らない悲しさというのを想像して、私はなおさら悲しくなってしまう。それは私にはまだ無念が残っているからだった。


