megamouthの葬列

長い旅路の終わり

世にも惨めな我が子への手紙

46歳になって、お前のことを――俺の生まれなかった子のことを考えた。生まれかけた命をどうこうする話ではない。そういう話が書けないというより、俺の人生には最初からその入口がなかった。入口がなかった理由は、いくらでもそれらしく言える。病気、金、仕事、将来、言葉を並べられる。フィナンシャル・アドバイザーの中年女が額に汗をかきながら、愛想笑いを浮かべて「残念なことですが、仕方ないことでもあります。今は未来について話をしましょうか」と言ってくるだけのものは、俺はいつでもマジシャンのように綺麗に取り出すことができる。俺には家庭がない、困窮するお前はここにはいない。なぜなら俺が十分に賢かったからだ。あなたもそう思うでしょ?おばさん。

子供を持った自分を想像したことは何度もある。若い頃は、逃れられない宿命として疎ましかった。適齢期には、ほのかな憧れとして眺めていたような気がする。今は―――そうだな、ファンタジーだ。死んだら神様に会って、剣と魔法の世界に転生している、ぐらいの話として扱っている。最新版はこうだ。日曜の午前の日差し、庭に止まった黒光りするSUV、お前ははしゃいで、座席に収まりもしない。俺はそれを見ても格別の感情も抱いた様子もなく、機械的に運転席に座ってシートベルトを締める。少し機嫌の悪い妻が助手席に乗り込んでくる。まるで車のコマーシャルで、反吐がでてくる。

笑えるのは、これがお前を想像するのじゃなくて自分が傷つかない想像になっていることだ。チャイルドシートの製品シールがかすれて読めなくなっているみたいな描写は入ってこない。金の話も、時間の話も、擦り減っていく何物の話も入れない。入れた途端に夢が壊れるからだ。壊れるぐらいなら、最初からコマーシャルのほうがマシだ。

実際のところはどうなのかも想像がついている。俺が身の程を知った生き方をしていれば、どうだったか、というやつだ。これは実物がある。地元に残っている同級生の家族だ。自転車が二台、同じ速度で進んでいて、後ろのチャイルドシートに小さな女の子が乗っていた。ヘルメットのあご紐が少しずれていて、揺れるたびに頬が白く見えた。同級生は前を見ていた。ちっとも笑っていなかった。自転車は狭い歩道をノロノロと窮屈そうに走った。冬の風が荷台のビニール紐を揺らす。

俺はそれを見て、安心した。ああ、これが現実だ、と言えるからだ。現実が窮屈で、笑っていない顔をしていれば、お前の不在にも形がつく。俺は他人の生活から都合のいい証拠を拾って、自分の言い訳を契約書の文言みたいに硬くできるってわけだ。甲は乙である、だから仕方ない、これで終わりだ。どれだけ汚い動機でも、言葉にして印を押せば合法になる。折れなくて済めば、何も失わない。どうだ賢いだろ?

愛については何も言えていないと思っていないか?俺に言わせれば愛っていうのは気持ちじゃない。気持ちなんて人間の後付けだ、それこそ合理性の塊だ。愛はもっと下品で、もっと古い。虫ですら持ってる。精子ですら持ってるかもしれない。向こうへ行く力だ。増えようとする力だ。自分の外側を作ろうとする力のことだ。
だから愛は、立派じゃない。合理的でも、理性的でもない。むしろその反対側にある。クソみたいな野蛮が愛だ。だから俺は持てるものの全てを使ってそいつをふん縛ってるというわけだ。俺は虫じゃない。虫みたいに雌に食われる代わりに、戻ってこれる。戻ってきて、こうやってお前に説明ができる。説明できるってことが、どれだけ便利な檻かお前なら知ってるだろう。

俺がここまで賢くなったのは理由がある。ある年まで俺は本気で仕事をした。頭がぶっ壊れるまでな。そんな「本気」なんて、世の中には掃いて捨てるほどあるんだろうが、それでも俺の本気は俺のものだ。誰も解けない問題を解いた。回らない歯車を深夜までかかって回して翌朝に吐いた。どうしてそこまでやるのか、ってお前は言うだろう。それが使命だと思ったからだ。つまりは、そうすれば、まわりの連中も俺のありがたみに気づくだろうという算段を俺はもっていたわけだ。

ボーナス面談の日、舐め腐った上司が舐め腐った態度で席に座っていた。チンケなビジネスを回してるだけでいい気になっているような顔だ。俺が回しているのはそのチンケなビジネスのそのまた小さな歯車でしかないが、俺のほうが本気でやってるのは明らかなんだから、やはり奴は舐め腐った顔をしていた。俺はこの顔を知っている。フィナンシャル・アドバイザーの中年女と同じ種類の顔だ。笑って、謝って、未来の話に逃がす顔。

上司は俺の評価シートみたいな紙を見て、ペンで何かに丸をつけた。俺の時間に丸をつけている。俺の睡眠に丸をつけている。俺の集中力に丸をつけている。俺の苛立ちに丸をつけている。そして、最後に俺という人生に丸をつけて言った。

「今回はね」

一息つく。演出だ。俺のほうを見ないまま言う。

「三万」

三万という数字は、奇妙にきれいだった。きれいすぎて、俺は反論できなかった。反論っていうのは、同じ土俵に上がることだ。俺がその場で「それは違う」と言えば、俺は値札の世界に入る。入った瞬間に、俺も虫じゃなくなる。虫みたいに向こうへ行けない代わりに、戻ってこれるようになる。戻ってきて、説明できるようになる。ビジネスと業界動向と事業と漫才について、エネルギーを持って語れるようになるというわけだ。

俺は笑ってしまった。笑うつもりはなかったが、口が勝手に動いた。笑いは常に俺の逃げだ。逃げが身体に染みている。「そうですか」と言った。上司はほっとした顔をした。面談が面談として成立したからだ。成立すれば、誰も責められない。合理性の勝ちだ。

会社を出て、コンビニで缶ビールを買った。三万のことを考えながら、二百何十円の缶を手に取った。レジの女は笑わなかった。笑う必要がないからだ。俺はアプリのポイントカードのバーコードを出した。女はバーコードを読み取って「ありがとうございました」と言った。何かが貯まった。貯まるってのはいい。貯まるのは、増えるのと似ている。似ているだけで、違う。ポイントは向こうへ行かない。どこにも行かない。

家に帰って、靴を揃えて、シャワーを浴びて、髪を乾かして、洗濯を回して、干した。増えるのは俺の生活だけだ。あの三万は、俺の本気を殺したんじゃない。殺したのは俺だ。俺はわかっていたが、虫だったので、何もわからないふりをするしかなかった。俺はあの数字を受け入れて、きれいに畳んで、引き出しにしまった。

そうやって賢くなった。愛を縛る縄を覚えた。縄は説明でできている。説明ができるってことが、どれだけ便利な檻か、お前なら知ってるだろ?

お前を養う金が三万円しかなかったから、お前はとうとう生まれることはなかった。三万円、と言った途端に話が終わる。その終わり方を、俺はずっと練習してきた。俺がこのことを説明できるようになったのは、ごく最近のことだ。最近になって、ようやく分かったんじゃない。最近になって、ようやく言えるようになった。言えるようになっただけだ。

上司の顔を思い出す。あのとき奴は、俺の話を聞いていなかった。聞いていないのに、丸をつけた。丸をつければ面談になる。面談になれば数字になる。数字になれば俺が黙る。黙れば全部が終わる。終わったことになる。俺はその仕組みが好きだった。好きだったから、乗った。

だからお前に聞かせてやれるのはここまでだ。俺は満足している。満足というのは、気分がいいという意味じゃない。夜にちゃんと眠れるという意味だ。朝にちゃんと起きて、歯を磨いて、洗濯を回して、また引き出しを閉められるという意味だ。できればお前にも味あわせてやりたかったけど、それはできない相談だ。何しろお前は生まれなかったのだから。


ビジネスとかいう採点表のないインチキスポーツ

ビジネスに負けた、という言い方は便利すぎると思う。

何に負けたのか説明できないとき、最後に置ける単語だからだ。提案して音沙汰がない時、コンペで選ばれなかった時、いろいろ要因を洗っても落ち度が見つからない時に、誰かが言う――「ビジネスに負けた」。

そう言った瞬間から、負けの要因分析は霧散して、なぜなぜなぜが始まる。結局、答えは自分の内側に回収される。僕の場合は、やる気がないとか、コミュ力がないとか、全体最適ができないとか。だいたいそういう話になる。

採点表がどこにも掲示されていないのに、点数だけが返ってくるみたいだ。採点基準を明らかにしない卑怯さのくせに、返ってくる点数だけは妙に断定的で、本当に気に食わない。

ビジネスというものが婉曲な生存競争であることは、頭ではわかっている。勝つ人がいて、負ける人がいる。資本が集まって、意思決定が起きて、仕事が配られる。椅子にありつけなかった僕は、そもそも必死になって椅子を取ろうともしていない。結果として負ける。もう随分、負けが続いているから、生活はどんどん痩せていく。やがてパンを買えなくなって死ぬだろう。因果関係としては確からしい。確からしいんだが、本当にそうなのか、という疑念がどこかに残っている。

たぶん僕の疑念は、負けたこと自体より、負け方にある。

部分最適なら、わりと上手くやったほうだと思う。保守性のあるコードというものについて知っているし、触ったことのない分野でも必要な知識を拾って実装できる。地味なバグの匂いを嗅いで先に潰す、みたいな癖もある。そういうものは、現場では役に立つ。少なくとも、僕はこの分野に関しては獣のように獰猛になれる。

ところがビジネスの場に出た瞬間、それらは見えないぐらいに小さくなる。「でも全体最適できてないですよね?」と言われて何も言い返せない。言い返せないのは、僕が間違っているからじゃない。全体とは何なのかが説明されないからだ。開発部門の話なのか、会社全体の話なのか、マーケットの話なのか、それとも宇宙のルールについてなのか。説明されないのに、それが最終判定として成立してしまう。

僕に言わせれば全体最適という言葉は、説明じゃなくて、終了の合図だ。本当のところは誰もわかってないのに、人を殴りつけるには最適で、使った者はさぞかし賢いことを言った気になれる。最高の棍棒だ。

本当に、ビジネスの薄気味悪さったらない。生存競争は残酷でもルールが見える。あのライオンはなぜ死んだのか。食うか食われるか、速いか遅いか、強いか弱いか。カメラで追跡すれば、そのうちにわかる。ビジネスは違う。ルールが見えない。採点者が何を見ているかも見えない。見えないのに、審判だけが笛を吹く。気がつくとライオンは死んでいる。僕は点数だけを受け取って、今日も負けたらしいと思う。負け方が説明されないから、僕にできることはその感覚に慣れていくことだけだ。きっと明日も負けるだろう。



「正体がわからないものについて知るには、飛び込め」と言われる。たぶん正しい。ビジネスのど真ん中に飛び込んでみれば、何かわかるかもしれない。でも次にわかったことは、入口がないということだった。

マーケットは遠くに見えている。そこに金があるのも、人がいるのも、仕事が動いているのも、ぼんやりとは分かる。でもそのマーケットの入口がどこにも見つからない。入口がないというより、入口が入口の顔をしていない。今のところの仮説だが、たぶん、入口は共同体の形をしている。

入口の看板だけなら、いくらでもある。セミナー、交流会、朝活、SNSの成功談、起業家のYoutubeチャンネル。どれも入口の顔をしている。でも、入口に見えるものほど入口ではない。入口であること自体が商品になっている。スタジアムの中で行われているのは競技ではなく、ただの即売会だ。入口に立った所で、競技者ではなく消費する客として扱われる。それかそいつ自身が商品なのだ。

例えば、社長同士のコミュニティがあって、朝5時半に集まってZoom会議をする。紹介が回り、つながりが生まれ、仕事が生まれるらしい。身近な社長がそこに飛び込んでいった。画面越しに笑顔が並び、気合いの入った挨拶が続く。みんな市場の入口に立っているような顔をしている。でも見ていると、どうにも空回っているようにしか見えない。市場に向かって走っているのか、共同体の中で回転しているのかが分からない。少なくとも僕には見分けがつかない。

ビジネスの世界への飛び込み方が分からないのが問題ではないのかもしれない。問題は、飛び込むと決めた瞬間に、見えない採点表に同意したことになってしまう点だ。何が評価されるのかは教えられない。でも、評価される前提で振る舞うことだけは求められる。紹介の回し方、愛想の作り方、熱量の出し方、肩書きの磨き方。そういうものを価値として受け入れろ、ということになる。そして、それでも競技者として扱われるかは彼らの気分しだいだ。僕はそこに抵抗がある。

ここまで来ると、「僕はビジネスに負けた」という文は、半分だけ嘘になる。負けたのはビジネスじゃなくて、入口の形式かもしれない。入口に共同体の作法が供えられていて、その生臭いイワシの頭が嫌で近寄れない、そういう僕の正気が、全ての原因なのかもしれない。

そもそも僕は勝ちたいわけじゃない。上に行きたいわけでもない。せめてルールを見たい。採点表を見たい。何が価値で、何がリスクで、誰が責任を負い、誰が許可を出しているのか。そういうものが、説明の形をして存在していてほしい。

でも現実は、説明の形をしていないものが勝っている。せいぜい説明できないものが、説明できる人を採点するだけだ。市場は見える。入口は見えない。僕はそこに立って、自分が競技に参加できているのかもわからないまま、今日も点数だけを受け取っている。

本屋の宗教

帰りの電車でドア横に立つ。幹線道路のヘッドライトが地平まで繋がっている。車は帰っていく。僕はただ見ている。

いつのまにか本が読めなくなっていた。

読めないのに本屋には行く。意味がわからないと思うけど、僕にもわからない。たぶん習慣だ。かつて本屋は安全地帯だった。安全地帯というのは、そこにいるだけで目的があるように見える場所のことだ。棚の前に立って深刻な顔をしていれば、「あの人は何か考えている」みたいな体裁が整う。実際は何も考えていない。文字が入ってこないから。

本屋に入ると、まず棚を見る。色とりどりの背表紙が無数に並んでいる。圧倒される。というより落胆が大きい。判決が速い。

「これは僕とは関係がない」
「これも関係がない」

読む前に諦めが来る。手に取る前に、もう終わっている。ページをめくる前に、「これも僕とは関係がない本だろう」と先回りして片づけてしまう。それが癖になっていた。

それでもどこかに「関係のある一冊」があるはずだと思っている。今の自分が最も求めている本、浮遊した魂が次々と収まっていくような気持ちになる本、そこにどんな事が書かれているか想像もつかないが、きっとある筈なのだと思う。安心の根拠は一度も確認されたことがないのに、無数に本があるだけで安心だけが先に発生する。便利な宗教みたいだ。

中学三年のとき、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。あれが僕の読書体験のピークだと思う。ピークが中3。自慢ではない。あの頃の僕は居心地が悪くて、常に苛立っていて、どこか違う場所を期待して、どこにも行き場がなかった。つまりだいたい今と同じだ。ただ、当時は本が効いた。文字が届いた。届いてしまったから、僕は「どこか違う場所」が本当に存在する気になった。今思うと、あれはまあ、手口が巧妙だった。

棚の前に立っていると、何かを達成した気分にもなる。実際は達成じゃなくて、可能性を温存しているだけだ。僕は昔から、この「温存」が異様に得意だった。この温存には名前がある。僕の中では、夢プロジェクトって呼んでいる。要するに「いつかやりたいこと」を心の中にしまっておく、というやつだ。ここで重要なのは「いつまでに」が無いことだ。期限が無いから、未完成が永遠に許される。未完成である限り「これからすごいことをやる人」という肩書きが維持できる。世界との対峙を先送りしながら、対峙している気分だけは保てる。便利すぎて、ちょっと倫理的にどうかと思うぐらいだ。

僕の夢プロジェクトは、だいたい編集の道具だった。新聞みたいなレイアウトをWebだけで実現する新聞メーカー。インターネット上にあるオーディオ・ルーパー。Amazonにあるまともな本だけを紹介するサイト。世界は雑すぎる。だから整えたい。整えれば居場所が生まれる気がする。きっとそんなことはないんだろうけど。

新聞メーカーは段組地獄だった。というより、段組以前に地獄だった。Webだけで新聞みたいなレイアウトを作ろうとすると、実装も大変だし、そもそもUIが初心者に扱えるものじゃなかった。僕が欲しかったのは「誰でも使える編集装置」だったはずなのに、気づいたら「僕しか使えない怪しい装置」になっていく。そして出来たものも普通に読みにくい。夢プロジェクトはだいたいそうなる。いつの間にか目的が、ユーザーのためではなく、自分の自尊心のために最適化される。

インターネット上にあるオーディオ・ルーパーは、もっとシンプルに著作権の問題がどうしようもなかった。ループという仕組みが悪いわけじゃない。悪いのは僕の脳内で、そこではインターネットが「なんでも切り貼りしていい素材集」になっていたことだ。世界と対峙しているつもりで、実は世界の法律を見ていなかった。対峙って、目を合わせることから始まるんだな、と今ならわかる。今なら、というのも便利な言葉だ。

Amazonにあるまともな本だけを紹介するサイトは、プロトタイプまで行った。ここがいちばん気まずい。僕は「まとも」とか言いながら、本の紹介文に著作権があるという事実を無視していた。まともなのは本で、僕ではない。世界を整える前に、自分の足元を整えろ、という話なんだろう。

夢プロジェクトは心の中の国債みたいなものでもある。今の自分が無価値でも、将来の自分が利息付きで返してくれるという証書。しかも償還日は未定。未定だからデフォルトしない。理屈の上では一生デフォルトしない。安心の供給が安定しすぎていて、逆に人生が回らない。国債だけが積み上がって、実体経済が死ぬ。笑える話だが、笑っている場合でもない。

本屋は、その国債の取引所だった。棚の前で「どこかに僕に関係のある文章がある」と思える。思えるだけで、少し息がしやすくなる。見つけたことはないのに、あるはずだけが残っていて、僕は棚の間を歩く。買わない。読まない。でも決済だけする。可能性だけを購入して、手ぶらで帰る。省エネで、持続可能で、そして何も生まない。まさに現代的だ。

そしてある時期から、その取引は秒で終わるようになった。棚を見た瞬間に「関係がない」と判決が確定する。読む前に諦めが来る。判決が早いのは賢くなったからじゃない。単に、傷つくまでの距離が短くなっただけだ。


だから今日も行った。

レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を、何度も読み返していた時期がある。表紙には誰かの電話番号が走り書きしてある。友人か、クラブミュージックつながりのオーガナイザーみたいな知り合いの番号だったと思う。残っている理由は単純で、その本を繰り返し読んでいたからだ。

番号は残る。用事は残らない。関係も残らない。残るのは、残す癖だけだ。僕はたぶん、連絡先を残したいんじゃなくて、「連絡しなくても関係が続く」という錯覚を残したい。錯覚にしてはずいぶん安上がりだ。鉛筆一本で買えるのだから。

まだ世界と対峙しているつもりだった頃、CGIプログラミングをしていた。perlはモジュールの読み込みで3req/sもこなせなくて、IE6とネットスケープナビゲーターのアイコンが画面の隅に並んでいた。いまなら骨董品として可愛いが、当時は普通に地獄だった。互換性の地獄というのは、技術の問題というより、性格の問題だと思う。人間が怒りっぽくなる。仕様に怒り、ブラウザに怒り、最終的に自分に怒る。いちばん手軽だからだ。

それでも僕は、世界と対峙しようとしていた。自分の力だけで金持ちになれる、みたいなことを信じていた。世界に対峙しているつもりで、実際にやっているのはIE6への土下座なのだ。一体僕は、何が出来るつもりで生きていたのだろうか。

たぶん今も、似たようなつもりで生きている。違うのは、いまは「出来るつもり」のほうが先に諦める、という点だ。昔は実装が諦めた。今は実装はAIがしてくれるから、諦めるのは僕だ。進歩だろうか。

音楽だけは、たまに届く。サブスクで聴く昔のテクノ。the orb。冬の曇り空。電車の窓。ヘッドライトのネックレス。文字は届かないのに、音は届く日がある。音には宛先が要らないのかもしれない。宛先が要らないものばかりが、生き延びる。逆に言うと、宛先が要るものはだいたい死ぬ。夢プロジェクトも、たぶんそうだ。

そういえば最近、夕方に港に行って青葉市子を聴いたら、なんだか良かった。よく晴れた日で、西にタンカーが見えた。巨大な鉄の塊が、何事もなかったみたいに海の上でゆっくり動いている。あれはどこに帰っていくんだろう。

タンカーには帰る場所がある。帰る場所というのは、たぶん現実だ。荷物を下ろす場所があり、次の荷物があり、次の航路がある。僕には本屋がある。年が開けて、本屋で安売りされていたカレンダーを買った。時間をちゃんと使える人間みたいな気分になった。予定は特にない。帰りの電車で、窓の外の幹線道路を見ながら、袋の中のカレンダーがガサガサ鳴った。ヘッドライトは相変わらずネックレスみたいに繋がっていて、地平のほうへ消えていく。袋の中では、安売りのカレンダーがまだ鳴っている。