megamouthの葬列

長い旅路の終わり

ビジネスとかいう採点表のないインチキスポーツ

ビジネスに負けた、という言い方は便利すぎると思う。

何に負けたのか説明できないとき、最後に置ける単語だからだ。提案して音沙汰がない時、コンペで選ばれなかった時、いろいろ要因を洗っても落ち度が見つからない時に、誰かが言う――「ビジネスに負けた」。

そう言った瞬間から、負けの要因分析は霧散して、なぜなぜなぜが始まる。結局、答えは自分の内側に回収される。僕の場合は、やる気がないとか、コミュ力がないとか、全体最適ができないとか。だいたいそういう話になる。

採点表がどこにも掲示されていないのに、点数だけが返ってくるみたいだ。採点基準を明らかにしない卑怯さのくせに、返ってくる点数だけは妙に断定的で、本当に気に食わない。

ビジネスというものが婉曲な生存競争であることは、頭ではわかっている。勝つ人がいて、負ける人がいる。資本が集まって、意思決定が起きて、仕事が配られる。椅子にありつけなかった僕は、そもそも必死になって椅子を取ろうともしていない。結果として負ける。もう随分、負けが続いているから、生活はどんどん痩せていく。やがてパンを買えなくなって死ぬだろう。因果関係としては確からしい。確からしいんだが、本当にそうなのか、という疑念がどこかに残っている。

たぶん僕の疑念は、負けたこと自体より、負け方にある。

部分最適なら、わりと上手くやったほうだと思う。保守性のあるコードというものについて知っているし、触ったことのない分野でも必要な知識を拾って実装できる。地味なバグの匂いを嗅いで先に潰す、みたいな癖もある。そういうものは、現場では役に立つ。少なくとも、僕はこの分野に関しては獣のように獰猛になれる。

ところがビジネスの場に出た瞬間、それらは見えないぐらいに小さくなる。「でも全体最適できてないですよね?」と言われて何も言い返せない。言い返せないのは、僕が間違っているからじゃない。全体とは何なのかが説明されないからだ。開発部門の話なのか、会社全体の話なのか、マーケットの話なのか、それとも宇宙のルールについてなのか。説明されないのに、それが最終判定として成立してしまう。

僕に言わせれば全体最適という言葉は、説明じゃなくて、終了の合図だ。本当のところは誰もわかってないのに、人を殴りつけるには最適で、使った者はさぞかし賢いことを言った気になれる。最高の棍棒だ。

本当に、ビジネスの薄気味悪さったらない。生存競争は残酷でもルールが見える。あのライオンはなぜ死んだのか。食うか食われるか、速いか遅いか、強いか弱いか。カメラで追跡すれば、そのうちにわかる。ビジネスは違う。ルールが見えない。採点者が何を見ているかも見えない。見えないのに、審判だけが笛を吹く。気がつくとライオンは死んでいる。僕は点数だけを受け取って、今日も負けたらしいと思う。負け方が説明されないから、僕にできることはその感覚に慣れていくことだけだ。きっと明日も負けるだろう。



「正体がわからないものについて知るには、飛び込め」と言われる。たぶん正しい。ビジネスのど真ん中に飛び込んでみれば、何かわかるかもしれない。でも次にわかったことは、入口がないということだった。

マーケットは遠くに見えている。そこに金があるのも、人がいるのも、仕事が動いているのも、ぼんやりとは分かる。でもそのマーケットの入口がどこにも見つからない。入口がないというより、入口が入口の顔をしていない。今のところの仮説だが、たぶん、入口は共同体の形をしている。

入口の看板だけなら、いくらでもある。セミナー、交流会、朝活、SNSの成功談、起業家のYoutubeチャンネル。どれも入口の顔をしている。でも、入口に見えるものほど入口ではない。入口であること自体が商品になっている。スタジアムの中で行われているのは競技ではなく、ただの即売会だ。入口に立った所で、競技者ではなく消費する客として扱われる。それかそいつ自身が商品なのだ。

例えば、社長同士のコミュニティがあって、朝5時半に集まってZoom会議をする。紹介が回り、つながりが生まれ、仕事が生まれるらしい。身近な社長がそこに飛び込んでいった。画面越しに笑顔が並び、気合いの入った挨拶が続く。みんな市場の入口に立っているような顔をしている。でも見ていると、どうにも空回っているようにしか見えない。市場に向かって走っているのか、共同体の中で回転しているのかが分からない。少なくとも僕には見分けがつかない。

ビジネスの世界への飛び込み方が分からないのが問題ではないのかもしれない。問題は、飛び込むと決めた瞬間に、見えない採点表に同意したことになってしまう点だ。何が評価されるのかは教えられない。でも、評価される前提で振る舞うことだけは求められる。紹介の回し方、愛想の作り方、熱量の出し方、肩書きの磨き方。そういうものを価値として受け入れろ、ということになる。そして、それでも競技者として扱われるかは彼らの気分しだいだ。僕はそこに抵抗がある。

ここまで来ると、「僕はビジネスに負けた」という文は、半分だけ嘘になる。負けたのはビジネスじゃなくて、入口の形式かもしれない。入口に共同体の作法が供えられていて、その生臭いイワシの頭が嫌で近寄れない、そういう僕の正気が、全ての原因なのかもしれない。

そもそも僕は勝ちたいわけじゃない。上に行きたいわけでもない。せめてルールを見たい。採点表を見たい。何が価値で、何がリスクで、誰が責任を負い、誰が許可を出しているのか。そういうものが、説明の形をして存在していてほしい。

でも現実は、説明の形をしていないものが勝っている。せいぜい説明できないものが、説明できる人を採点するだけだ。市場は見える。入口は見えない。僕はそこに立って、自分が競技に参加できているのかもわからないまま、今日も点数だけを受け取っている。

本屋の宗教

帰りの電車でドア横に立つ。幹線道路のヘッドライトが地平まで繋がっている。車は帰っていく。僕はただ見ている。

いつのまにか本が読めなくなっていた。

読めないのに本屋には行く。意味がわからないと思うけど、僕にもわからない。たぶん習慣だ。かつて本屋は安全地帯だった。安全地帯というのは、そこにいるだけで目的があるように見える場所のことだ。棚の前に立って深刻な顔をしていれば、「あの人は何か考えている」みたいな体裁が整う。実際は何も考えていない。文字が入ってこないから。

本屋に入ると、まず棚を見る。色とりどりの背表紙が無数に並んでいる。圧倒される。というより落胆が大きい。判決が速い。

「これは僕とは関係がない」
「これも関係がない」

読む前に諦めが来る。手に取る前に、もう終わっている。ページをめくる前に、「これも僕とは関係がない本だろう」と先回りして片づけてしまう。それが癖になっていた。

それでもどこかに「関係のある一冊」があるはずだと思っている。今の自分が最も求めている本、浮遊した魂が次々と収まっていくような気持ちになる本、そこにどんな事が書かれているか想像もつかないが、きっとある筈なのだと思う。安心の根拠は一度も確認されたことがないのに、無数に本があるだけで安心だけが先に発生する。便利な宗教みたいだ。

中学三年のとき、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。あれが僕の読書体験のピークだと思う。ピークが中3。自慢ではない。あの頃の僕は居心地が悪くて、常に苛立っていて、どこか違う場所を期待して、どこにも行き場がなかった。つまりだいたい今と同じだ。ただ、当時は本が効いた。文字が届いた。届いてしまったから、僕は「どこか違う場所」が本当に存在する気になった。今思うと、あれはまあ、手口が巧妙だった。

棚の前に立っていると、何かを達成した気分にもなる。実際は達成じゃなくて、可能性を温存しているだけだ。僕は昔から、この「温存」が異様に得意だった。この温存には名前がある。僕の中では、夢プロジェクトって呼んでいる。要するに「いつかやりたいこと」を心の中にしまっておく、というやつだ。ここで重要なのは「いつまでに」が無いことだ。期限が無いから、未完成が永遠に許される。未完成である限り「これからすごいことをやる人」という肩書きが維持できる。世界との対峙を先送りしながら、対峙している気分だけは保てる。便利すぎて、ちょっと倫理的にどうかと思うぐらいだ。

僕の夢プロジェクトは、だいたい編集の道具だった。新聞みたいなレイアウトをWebだけで実現する新聞メーカー。インターネット上にあるオーディオ・ルーパー。Amazonにあるまともな本だけを紹介するサイト。世界は雑すぎる。だから整えたい。整えれば居場所が生まれる気がする。きっとそんなことはないんだろうけど。

新聞メーカーは段組地獄だった。というより、段組以前に地獄だった。Webだけで新聞みたいなレイアウトを作ろうとすると、実装も大変だし、そもそもUIが初心者に扱えるものじゃなかった。僕が欲しかったのは「誰でも使える編集装置」だったはずなのに、気づいたら「僕しか使えない怪しい装置」になっていく。そして出来たものも普通に読みにくい。夢プロジェクトはだいたいそうなる。いつの間にか目的が、ユーザーのためではなく、自分の自尊心のために最適化される。

インターネット上にあるオーディオ・ルーパーは、もっとシンプルに著作権の問題がどうしようもなかった。ループという仕組みが悪いわけじゃない。悪いのは僕の脳内で、そこではインターネットが「なんでも切り貼りしていい素材集」になっていたことだ。世界と対峙しているつもりで、実は世界の法律を見ていなかった。対峙って、目を合わせることから始まるんだな、と今ならわかる。今なら、というのも便利な言葉だ。

Amazonにあるまともな本だけを紹介するサイトは、プロトタイプまで行った。ここがいちばん気まずい。僕は「まとも」とか言いながら、本の紹介文に著作権があるという事実を無視していた。まともなのは本で、僕ではない。世界を整える前に、自分の足元を整えろ、という話なんだろう。

夢プロジェクトは心の中の国債みたいなものでもある。今の自分が無価値でも、将来の自分が利息付きで返してくれるという証書。しかも償還日は未定。未定だからデフォルトしない。理屈の上では一生デフォルトしない。安心の供給が安定しすぎていて、逆に人生が回らない。国債だけが積み上がって、実体経済が死ぬ。笑える話だが、笑っている場合でもない。

本屋は、その国債の取引所だった。棚の前で「どこかに僕に関係のある文章がある」と思える。思えるだけで、少し息がしやすくなる。見つけたことはないのに、あるはずだけが残っていて、僕は棚の間を歩く。買わない。読まない。でも決済だけする。可能性だけを購入して、手ぶらで帰る。省エネで、持続可能で、そして何も生まない。まさに現代的だ。

そしてある時期から、その取引は秒で終わるようになった。棚を見た瞬間に「関係がない」と判決が確定する。読む前に諦めが来る。判決が早いのは賢くなったからじゃない。単に、傷つくまでの距離が短くなっただけだ。


だから今日も行った。

レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を、何度も読み返していた時期がある。表紙には誰かの電話番号が走り書きしてある。友人か、クラブミュージックつながりのオーガナイザーみたいな知り合いの番号だったと思う。残っている理由は単純で、その本を繰り返し読んでいたからだ。

番号は残る。用事は残らない。関係も残らない。残るのは、残す癖だけだ。僕はたぶん、連絡先を残したいんじゃなくて、「連絡しなくても関係が続く」という錯覚を残したい。錯覚にしてはずいぶん安上がりだ。鉛筆一本で買えるのだから。

まだ世界と対峙しているつもりだった頃、CGIプログラミングをしていた。perlはモジュールの読み込みで3req/sもこなせなくて、IE6とネットスケープナビゲーターのアイコンが画面の隅に並んでいた。いまなら骨董品として可愛いが、当時は普通に地獄だった。互換性の地獄というのは、技術の問題というより、性格の問題だと思う。人間が怒りっぽくなる。仕様に怒り、ブラウザに怒り、最終的に自分に怒る。いちばん手軽だからだ。

それでも僕は、世界と対峙しようとしていた。自分の力だけで金持ちになれる、みたいなことを信じていた。世界に対峙しているつもりで、実際にやっているのはIE6への土下座なのだ。一体僕は、何が出来るつもりで生きていたのだろうか。

たぶん今も、似たようなつもりで生きている。違うのは、いまは「出来るつもり」のほうが先に諦める、という点だ。昔は実装が諦めた。今は実装はAIがしてくれるから、諦めるのは僕だ。進歩だろうか。

音楽だけは、たまに届く。サブスクで聴く昔のテクノ。the orb。冬の曇り空。電車の窓。ヘッドライトのネックレス。文字は届かないのに、音は届く日がある。音には宛先が要らないのかもしれない。宛先が要らないものばかりが、生き延びる。逆に言うと、宛先が要るものはだいたい死ぬ。夢プロジェクトも、たぶんそうだ。

そういえば最近、夕方に港に行って青葉市子を聴いたら、なんだか良かった。よく晴れた日で、西にタンカーが見えた。巨大な鉄の塊が、何事もなかったみたいに海の上でゆっくり動いている。あれはどこに帰っていくんだろう。

タンカーには帰る場所がある。帰る場所というのは、たぶん現実だ。荷物を下ろす場所があり、次の荷物があり、次の航路がある。僕には本屋がある。年が開けて、本屋で安売りされていたカレンダーを買った。時間をちゃんと使える人間みたいな気分になった。予定は特にない。帰りの電車で、窓の外の幹線道路を見ながら、袋の中のカレンダーがガサガサ鳴った。ヘッドライトは相変わらずネックレスみたいに繋がっていて、地平のほうへ消えていく。袋の中では、安売りのカレンダーがまだ鳴っている。


エンジニアの技術と給料

お金、それも給料の話は、あさましい、ということになっている。婚活パーティーでもなければ隣の席の人間がいくら貰っているか堂々と聞くこともできない。

かつてGoogleで、自分の給料を全社員が見られる共有スプレッドシートに書き込み、公開を促した女性が現れてとんでもない騒ぎになったことがある。その行為の是非はともかく、不透明さによって守られていた上層部の平和は破られ、結果として彼女が社内で干される原因にもなったようだ。

このように給料の周りには、常に不透明な霧があって、その秘密は厳然と守られている。一方で、物価が上昇し、新卒の初任給が30万に達し、ボーナス平均が100万を超えたなどというニュースが連日報道されていて、先月のアフィリエイト収入が240円で、4月から素寒貧の無職になることが決定しているこのブログの主としては、気が気でない。

今こそ、私たちは給料の話をしなくてはならないのかもしれない。なぜなら、そこには、エンジニアを縛り付ける幾重もの欺瞞と、それ以上に厄介な自尊心の問題が横たわっているからだ。


さて、エンジニアの給料についての最も無邪気な世界観は「技術力が上がれば給料も上がる」だ。若かりし頃、私もどこかでそう信じていた。

AtCoderの色がそのまま給料に反映されると考えるほど無邪気でなくとも「同僚をたくさん助けられるぐらい技術力が高ければ」とか「最先端のフレームワークを使いこなせれば」とか「ドメイン知識に詳しくなれば」とか、技能・知識的な向上が多少なりとも給料に反映するはずだ、というモデルは多くのエンジニアが少なからず内面化しているように思う。

このモデルの秀逸なところは、給料とスキルという二つの異なる価値を、一つの「自尊心」という源泉に統合して扱える点にある。技術を磨くことが、そのまま職場での自分の価値を高め、同時に銀行口座の数字も増えていく。このシンプルで美しい因果関係を信じることで、私たちは「金儲け」というあさましいゲームから離脱し、「自己研鑽」という高尚な響きのある世界へと昇ることができる。それは、まるで修行に励んだ僧侶が、尊敬を勝ち取り最後には報われて解脱に至る、というのに似た神々しい物語だ。

しかし、(特に中小企業では)ここに残酷な構造的制約が立ちふさがることが多い。現実には技術力は、給料を「上げない」理由には十分活用される(まわりの足を引っ張っているから)が、「上げる」理由にはなりにくい。なぜなら、個人のスキルよりも先に、事業の粗利があって、そこが給料の上限を決めているから、つまりは会社が立たされている「交易条件」——どの財布に手を突っ込んで商売をしているか、という経済的立ち位置が給料の上限を決定しているからだ。

例えば圧倒的な利益率を叩き出すSaaS企業のエンジニアと、人月単価を買い叩かれる多重下請けの末端にいるエンジニア。後者がどれほど超人的なアルゴリズムを書き、不眠不休で技術を磨いたとしても、技術を金に変える能力を組織がもっていない以上、その給与が前者の新人プログラマに追いつくことは構造的に不可能だ。

この自尊心を中心とした給料とスキルの正のループが絶たれると、やっかいなことに「被害者意識」が生まれる。
技術を磨き、自尊心が高まれば高まるほど、本来受け取るべきだと感じる「自分の価値」と、構造的に決定されている「額面の数字」のギャップが開いていくのである。
自尊心の源泉をスキルと給料で一つにまとめてしまったがゆえに、給料の停滞や、転職サイトで見かける同一スキルの想定年収といった情報が、自分の技術、ひいては存在そのものへの否定として突き刺さっていくのである。
技術者の高まった自尊心を、所属する組織が受け止めきれなくなったとき、その軋みは「正当に評価されていない」という怒りに変わるというわけだ。

私としては、こうなってしまった以上、より儲かっている会社に転職してもらうのが、本人にとっても、会社にとっても有意義なことだと思うのだが、経営側としてはそういう訳にもいかないのか、自分の役員報酬以上の金額を出すのは我慢ならないからか、自社のエンジニアの給料が低い理由をあれこれでっち上げ始める。

例えば、よく会社側が持ち出す理屈が「事業への貢献」という言葉だ。「君の技術は確かにすごいが、うちの事業に貢献できていない」というアレである。今までの議論を見ればわかるようにそれは大抵「事業モデルそのものの交易条件の悪さを、現場のエンジニアの努力で埋め合わせろ」という無理難題にすぎないのだが、エンジニアというのは商売や事業モデルに疎いことが多いので、こんな無理な言いがかりもある程度の説得力を持ってしまうのである。

そして、哀れなエンジニアは健気にも、当社で実行可能な(そして多くはマニアックな)事業案みたいなものを考えたりするのだが、そもそも事業をやる側は、技術的視野もなければ、勝負できるマーケットも持っていない(持っていればもっと具体的な話になるはずである)から、そういうところに提案を持っていったところで、「これは一体何?」「どうやって売るの?」「どうやったら儲けられるの?」という当惑とともに切り捨てられて終わりである。

私が思うに彼らが真に求めているのは、自分たち以外が容易には入ってこれない魔法のカーテンに遮られた、金持ち顧客が充満しているマーケットそのものである。技術はその魔法を構成する一部にはなるかもしれないが、それはビジネスモデルや営業戦略を含めた組織全体の戦いであって、少なくともエンジニア個人に「これを使ってなんとかしろ」と求める話ではないはずなのだ。

だから、もし「チミもさあ、ビジネスというものの中でだね、その技術力をどう生かしたらいいか、考えてごらんよ、それで売上がたてばさ、もちろん給料だってガンガン上がっていくわけだからね」と上から目線で言われた場合は、「なるほど。では事業部長にしていただいた上で、人事権その他諸々の権限とともに、必要な予算をいただけるということでいいですか?」とでも軽く返しておけば良いのである。

話が逸れた。

さて、転職すれば給料は上がるのだから、転職すればいい、という結論にしかならなかったわけだが、ここにも二つほど、身も蓋もない話があるのでしておきたい。

一つは転職しても技術が独立に評価されて給料が決定するわけではない、という話だ。面談に来たエンジニアの給料を内示する時、彼らは必ず「前職の年収」を考慮する。転職サイトやエージェントがいくら「相場」を喧伝しようが、実際の内定通知書に並ぶ数字を支配しているのは、技術力ではなく履歴書に書かれた過去の数字である。源泉徴収票の提出という事務的な手続きがある以上、前職という「財布」の大きさが、次の場所でのあなたの価値さえも規定し続けるのである。

そしてもう一つの身も蓋もない話——それは年齢という壁だ。技術が給料を規定する「チケット」として機能するのには、残念ながら明確な有効期限がある。

30代までは、技術というチケットで「より大きな財布」へ移動できる可能性が残されている。しかし、40歳、あるいは私のように46歳のおじいちゃんになってしまった場合、景色は一変する。 そこではもはや、どれほど精緻なコードを書けるかという「精度」は、決定的な価値を持たなくなる。スキルチェックや職務経歴とは無関係に、転職サイトの募集一覧から、Reactやk8sのような単語がすっかり消えて、paizaの必要ランクはFになり、上から読んでも下から読んでもSESとしか読めない企業だけが残るようになる。

雇う側がベテランに求めているのは、技術ではなく「人柄」や「人間力」といった、計量不能な「ソフトスキル」の類なのかもしれない。実際、これは最近の私の場合だが、現場の人々が概ね好意的な理由は、私の技術に対する畏敬の念というよりは、「ベテランなのに物腰が柔らかい」「現場の空気を乱さない」といった、扱いやすさに対する安堵に近いことが多いのではないかと思っている。 「技術で食えるのは40歳まで。あとは人柄」——今作ったこの残酷な格言は、技術的な自尊心を積み上げてきた私の一部分にとって、ある種の死刑宣告のようにも響いている。


このように、はるか高みのGAFAとそこに類するところ以外では、技術力が給料ができるだけ結びつかないようにできているのが世間である。その構造が間違っていると叫ぶことは可能だが、そうしたところで、私の4月からの職場が決まるわけではない。ならば、私たちが取るべき最後の生存戦略は、「技術を自尊心に結びつけることを辞める」ことかもしれない。

思えば、給料(市場価値)とスキルを一つの自尊心に統合してしまったことが、すべての悲劇の始まりだった。その統合モデルを採用している限り、私たちは「年収が低い=技術が低い=人間としての価値が低い」という、逃げ場のない三段論法に自分を追い込み続けることになる。

40歳を超えた今、「エンジニアの技術とは年収とは特に関係のない、いい匂いがするとか、雑談がおもしろいとか、そういう類の能力である」と考えることができたなら、もし市場から「あなたは年収400万円で平均的ですね」と告げられたとしても、すんなり受け入れられそうな気がする。なぜならそこには自分の20年間の研鑽に対する否定などない、ただ単に、「平均的な人格の商品」が「平均的な価格」で取引されているという、冷徹な事務作業が行われているだけだ、と考えることができるからだ。

もちろん、個人的な「誇り」として技術を愛し続けるのは自由だ。週末に誰も見ないような美しいコードを書くことや、深遠な型パズルに挑むことは、依然として素晴らしい余暇であり、魂の救済になり得る。しかし、その誇りを給料袋の中に、あるいは他人の評価の中に探すのはもうやめにすべきなのだろう。自尊心の源泉を「他人が値付けする市場」から切り離し、自分の内側にそっと隠しておくことができれば、私たちはもう少しだけ、この身も蓋もない地平を軽やかに歩いていけるはずなのだ。