目が覚めた時は、すでに夜の0時であった。
私は、猛烈に腹が減っていた。
近所の住人に気が付かれないように、玄関の扉を開けると夜の街が静かに開いた。
コンビニにたどり着くと、誰もいない店内で目についた不健康そうな食料をカゴに放り込んで、無表情な店員に代金を払う。
弁当と、ペットボトルのお茶が入ったコンビニ袋を持った私の横を、数台の車が通り過ぎる。
家に帰りつくと、すぐにPCの前に座り、ニュースサイトを見ながら食事を済ませる。ようやく空腹感は収まった。私は医師から処方された抗鬱剤と、精神安定剤をお茶で流し込んだ。
鬱病と診断されてからの、私の一日というのはこんな風に始まっていた。
ついこの間までひっきりなしに来ていた仕事のメールはもはや来ない。実際、まだ来ているかもしれないが、こうして家にいる以上、それらを確認する方法はなかったし、私宛のメールは全て上司に転送されている筈だった。
私はSkypeを立ち上げる。
オンラインのリストには誰の名前もなかった。皆寝ているのだろう。知人以外とSkypeで話した事のない私にとって、平日の夜は孤独そのものだった。
ネットの友人でも作るべきだろうか。と私は半ば自暴自棄になって思った。自分は孤独には強い人間だと思っていたが、寂しいというよりは、単純に暇すぎるのだ。
時刻は午前1時を過ぎている。試しに当時は存在したskypecastという音声で会話のできる会議室のようなものを覗く。
大小様々な会議室が並んでいた。雑談の部屋、メンタルヘルスの部屋、エッチな会話を楽しむ大人の部屋。何の興味も沸かなかった。
私は溜息をついて、いつもと同様にskypecastのページタブを閉じた。煙草を吸い、このまま、この孤独と退屈に耐えることができたなら、立派な引きこもりやニートになれるだろう、と思った。
別にそれが悪いことには思えなかった。それらと同様に、もはや私には希望があるようにも思えなかったし、大学を辞めて零細企業に入ったあげく、会社に行けなくなってしまった人間には適当な末路のようにも思えるのだった。
煙草を一本灰にして、ふと思いついた。自分が会議室を開けばいいのだ。
部屋の名前は「憤怒のトリスタン」にした。トリスタンとは円卓の騎士の1人の名だが、特に深い意味はなかった。単に「エッチなお話しよう(ホストは40代後半)」みたいな部屋に入ってくる変態どもがとても入れないような得体の知れない部屋にしたかっただけだ。
会議室が開いた。当然のように誰も来なかった。このまま夜が明けてしまってもそれはそれで良かった。
しばらく煙草を吸っていると、やたら元気の良い高校生ぐらいの若者が二人で入ってきた。
彼らは不躾に「この部屋なんなの?」と尋ねた。
「特に何の意味もない部屋だよ」
と私は答えた。
「ふーん。あんたは何してる人?」
「ニート」
と私は言った。
「けっこう年いってるのにニートかよっ」
ともう一人が笑い声を上げた。
「そだよ」
「働けよ」
「やだよ」
と彼らは囃し立てた。特に腹はたたなかった。人生を何も知らない若者にはわからないだろうな、と偉そうに思ったし、ついこの間まで自分はITシステム構築の最前線にたっていたのだ、という自負もあった。もちろん説教がましく、その事を言うつもりもなかったし、彼らを止める気もなかった。
参加者が増えたので、無言で何人か入ってくる人がいた。私は律儀にいちいち彼らに挨拶したが、彼らは「ニート」を罵倒する高校生に辟易したのか、何も喋らないか、すぐに出て行ってしまうのだった。
そのうち、反応の乏しさに飽きたのか、高校生コンビも出て行った。残ったのは一人だけだった。少しの沈黙の後、一人が口を開いた。
「こんばんは」
意外にも若い女性の声だった。
「こんばんは。特に話題もありませんが。暇ならどうぞ」
と私は言った。
「ホストさん。大丈夫でした?」
と彼女は心配そうに尋ねた。
「何が?」
「いや、あの子たちひどいな。ってみんな事情があるのに、って」
「いや、別に。ニートなのは事実だしね」
「強いですね」
強いというわけでもない、自分が軽蔑している人間に何を言われても特に何も感じないだけだ、と私は思った。
「こんな動画知ってます?」
と彼女はURLを貼った。外国人が色々な世界にある色々な場所でダンスを踊る。草原で、雪原で、今にも落ちそうな岩の上で、同じダンスを踊る。それを音楽にあわせて上手に編集した動画だった。
「ああ、これなら前に見ました。いいですよね」
「うん。私もこんな風にいろんなところにいけたらな、と思う」
「そうですね。」
「それにしても、動画知ってたんですね」
「暇だからね」
「仕事に追われて何も知らない人より、こういう動画を知っている人のほうが私は心が豊かだと思う」
そうかもしれないが、YoutubeのURLを一つ知ってることがそんなに偉大なことだとは全く思わなかった。ただ、彼女が慰めてくれているらしいことだけはわかった。
「ありがとう。そう言ってくれると、少し嬉しい」
と私は言った。
少し雑談して、彼女もまた会議室を出て行った。
次に入ってきたのは、明らかに酔っ払った中年の男だった。
「ここ何の部屋?」
とぶっきらぼうに彼は言った。
「特にテーマはない部屋です。こんな名前にして入ってくる人がいるのかな、と思っただけですよ」
「そっか。稲生物怪録って知ってるか?」
「山本(さんもと)五郎左衛門が出てくる?」
「知ってるのか」
諸星大二郎の漫画で知っているだけですが、と私は言った。
「やるじゃないか。あんた只者じゃないな。」
彼はその後、しばらく日本の妖怪の話をした。知らない話もあったし、知っている話もあった。
特に、私が中学生の時に読んだ、遠野物語の話でしばらく盛り上がった。
「もう、こんな時間か。俺は寝る」
と彼は上機嫌で帰った。いつのまにか無言で聞いていたギャラリーが集まっていたが、彼らは声を発することはなかった。そのまま寝てしまったのかもしれない。
「では、『憤怒のトリスタン』はこのへんで、終わります。ありがとうございました」
私は厳かに閉会を宣言して、会議室を閉じた。
顔も知らない人間と話したのは初めての経験だったが、色々な人がいるものだな、と私は思った。ここには優しさも残酷さも現世への無関心も同居しているのだった。
ネットも、そう悪い世界でもないのかも知れない。少なくとも私にとっては。
空は白み初めていた。いつもこうして、夜は勝手に明けてしまう。次の日も、そのまた次の日も。
そして新しい日に希望はない。ただ、それぞれの日常がある。サラリーマンにもニートにも引きこもりにも鬱病患者にも、それぞれの。
私は少し気楽な気分になって、ベッドに横たわった。そして久しぶりの穏やかな眠りを得た。

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