megamouthの葬列

長い旅路の終わり

俺はチューブ

ある朝、俺はなにか気がかりな夢から目をさまして、自分が寝床の中で一本のチューブに変わっているのを発見した。

俺はチューブだ。AIに投げて、返ってきたものを受け取って、また投げる。ロジックの本質は俺をすり抜けて、構築中のシステムとチャットウィンドウの間を往復している。それは確かに俺の中を通ってはいるが、俺には触れていない。どこにも積み重ならない。

時にはもう少し高度な役回りをすることもある。顧客からの苦情が届く、AであるべきところがBになっている。という具合だ。俺はチューブ以外の役回りが出来たことに内心はしゃいで、意気揚々とコンディショナル・ブレークポイントを仕込む。ここがBであるときにデバッガが止まるようにする。そして顧客と同じ操作をして、デバッガが止まるのを待つ。
デバッガは止まった。変数を覗き見しても、何が起こっているかはおぼろげにしかわからない。ただ、チューブ+αとしては上等だ。俺は居丈高にAIに言う。
「ここに来た時にBになっているぞ!俺の考える仮説はこうだ」AIはそれを受け取って、慇懃に謝罪して、修正する。
その修正案には俺の仮説は欠片も残っていない。しかし、デバッガは止まらなくなっている。結果も問題ない。これにて今日のタスクは終了だ。
クラムシェルのノートPCの蓋を閉めながら俺は考える。今日の俺は、チューブ以上だったか?AIならきっと肯定するに違いない。「あなたなしではこのタスクはこなせませんでした」
あの嘘つきの太鼓持ちがそう言うなら、俺はチューブだった、ということだ。

俺はチューブに甘んじている。

それで、ふと思った。そもそも俺は何者だったのか。

エンジニアのアイデンティティというのは、だいたい二つの柱で成り立っている。一つは「物事に対して技術的な観点から回答できる」こと。もう一つは「複合的な問題を切り分けて、一つ一つ潰していける」こと。これが俺たちの飯の種であり、プライドの源泉だった。転職サイトのスキルシートに並ぶ言葉ではなく、もっと内側にある、自分がエンジニアである根拠のようなものだ。

それを手に入れるために、俺たちは「経験」を積んできた。新しいフレームワークが出れば、無理やりプロジェクトに突っ込んで職務経歴書を仕上げた。客先で怒られながら覚えたこと、深夜に一人でエラーログを睨みながら掴んだこと、そういう痛みの蓄積が「経験」の中身だった。少なくとも俺はそう思っていた。その経験が、技術的な判断の根拠になって、会議で発言できる根拠になって、自分がここにいていい根拠になる。

ChatGPTを初めてまともに使った時、俺はしばらく黙っていた。

こいつは、俺がアイデンティティと呼んでいたものを、わりと涼しい顔でやってのけた。技術的な観点からの回答。複合的な問題の切り分け。俺が10年かけて体に染み込ませてきたものを、こいつはプロンプト一発で出してくる。精度がどうとか、ハルシネーションがどうとか、そういう話はある。あるが、方向性として、こいつは俺と同じ仕事をしようとしている。それは明らかだった。

ネットは「もうプログラマーは不要になる!」と言う人間で溢れかえっていた。そうはいってもまだAIに出来ない分野はある、とか、AIは責任をとれない、とか、AIはツールでしかないからAIを使いこなせばいい、とか、複雑なビジネス要件についてはコンテキストの量が足りないない、とか、最後は人間が判断するしかない、とか、そういう言説を目にする度に俺はうんうんと頷いて、心の平穏を保ってきた。有能な部下が出来たと考えれば良い、というアイデアもあった。あれだけ管理職になるのを拒んできたのに、俺はそのアイデアに乗った。

AIが俺たちの仕事の一部分をこなせるのは間違いない。だが、AIが俺たちなしにタスクをこなせるわけじゃない。
変化すればいい。俺はそう考えた。そして―――チューブになっていたというわけだ。


俺がチューブになる前の最後の記憶を話そう。生産計画の立案処理を書いていた時のことだ。やたら複雑で例外の多い要件だった。俺はせっせとモデリングして、OOPに限界を感じてDDDの手法も取り入れて、それなりのものを作った。顧客はそれを見て、首を振った。立案された計画に実用性がなかったのだ。
俺はムカついて、ClaudeCodeがそこそこやる、という噂も聞いていたので、自分のコードを連中に見せた。連中はすぐにコードを書いた。全くもって醜い、ループと手続きが主体の、まともに動くのかすら怪しい1000行ほどのpythonコードが出来た。俺は笑って、どんなひどい結果が出るのか楽しみになって、既存のコードにつなぎこんだ。

ほぼ顧客の望む結果が出力された。

今でもそれは動いている。見るのも嫌な1000行のコードがビジネス要件を満たしている。

俺はその時、「困ったことになった」と思った。顧客の要望を満たしてたコードは手元にある。例えば俺が誠実な人間だったとしたら、これを再度モデル化して、DDDでビジネス要件にマッピングして、自分が腹落ちするコードに書き直し、かつ、AIが最初に出力したものと同じものを出力できるようにするだろうと思った。
だが、困ったのは、そんな作業をする気に全くならないということだ。
俺は不誠実なエンジニアだった。

目の前で完璧に動いているものを、わざわざ壊して、何時間も、あるいは何日もかけて「自分が理解できる形」に翻訳し直す。かつてはそれが「経験を積む」ということの正体だったはずなのに、今はもう、ただの途方もなく無駄で、苦痛な儀式にしか思えなくなっていた。

「これで動いてるんだから、もういいじゃないか」

頭の片隅で悪魔が囁くのではない。俺自身がそう思っているのだ。AIのブラックボックスな出力に対して、「LGTM」のハンコを押し、そっとコミットを積む。俺がやっているのは、ソフトウェアエンジニアリングではない。ただの「動く文字列の横流し」だ。

その瞬間、俺はチューブになった。

チューブになって、何度もAIを使った。
動くコードが出てきた時、俺はいつも二つの感情を同時に持った。よく出来てるな、という感嘆と、それは俺の仕事だったはずなのに、という感情。

最初のうちはその二つが激しくぶつかっていた。

AIの書いたコードで作ったデモを顧客に見せた時、顧客はその迅速な対応とリッチなUIに喜んでいた。俺の書いたコードじゃない。誰のコードでもない。

その時、ぶつかる音が聞こえなかった。

それを摩耗と呼ぶこともできるし、慣れと呼ぶこともできる。

最初のブラックボックスは、まだ読めると思っていた。気合を入れて一日かければ、この1000行の意味を全て理解できるはずだと。次に顧客の変更要望が来て、AIがそれに答えた時、その自信は少し薄れた。修正されたコードは、前のコードの上に別の文脈が重なっていて、もはや一つの意図として追える構造ではなくなっていた。何度か繰り返すうちに、読めるという確信はなくなって、代わりに、自分がこのコードを一から読むことはおそらくないのだろう、という別の確信だけが膨らんでいった。

意外と楽だった。

思えば、俺の上にいた人間たちも、俺が書いたコードを理解していた奴がどれだけいたというのか。彼らは俺のコードをブラックボックスとして受け取り、動いているかどうかと、顧客が怒っていないかどうかだけを見ていた。俺は当時、そういう上司を内心バカにしていた。技術がわかっていない奴に評価される屈辱。あの感情は本物だった。そして今、俺はAIのコードに対して、まさに同じことをしている。

そんなわけねーだろボケ、という思いは残っている。俺と、コードを読まなかったあいつらを一緒にするな。俺にはまだ読む能力がある。ただ読まないだけだ。——だが、読まない能力と読めない能力の区別に、いったいどれほどの実用的な意味があるだろうか? 世の中としてはそれでいいのかもしれなかった。動いているものは動いている。顧客は喜んでいる。それ以上の何が必要なのか、と問われたら、俺には「俺のプライド」以外の答えがない。



コードを書くループの中で、今日もチューブをやっている。最も処理が遅く、高価な部品として。
こいつにはまだ感情が残っていて、体内をおもしろそうなロジックが通り過ぎる度、血栓の詰まった血管のように体を悶えさせている。俺には予感がある。いつかそれに耐えられなくなった時、俺はそれを「救済」と呼ぶのだろう、ということだ。

完全なコード、バグのないシステム、決して停止することのないサーバー、深夜に星がまたたくように明滅するルーターのランプのように、永遠に止まることのない存在の一部に俺はなりたかった。本気で、この広大なネットの完全性の一部になりたかったのだ。

あるいは単なるチューブになって俺はそうなろうとしているのかもしれなかった。だが、おそらくそれは叶わない。俺にはまだ、AIにないものが一つある。

それはユーモアだ。ユーモアだけはまだAIに負けてない。と俺は思って今この文章を書いている。どうだ?笑えただろ?


お前らの正義の話をしよう

大手ECサイトをスクレイピングするプログラムをClaudeCodeに書いてもらいました。とても便利なので公開したいのですが、友人のプログラマに相談すると「叩かれるからやめておけ」と忠告されました。AIも同意見のようです。正直、基準も理由もよくわかりません。なぜ私はこのプログラムを公開してはいけないんでしょうか?

「叩かれるからやめておけ」というのは、正しい忠告だし、君の為を思って言ってくれた言葉だと感じる。君が公開したスクレイパー付きシステムが何をするものかは知らないが、そのプログラムのインパクトが強ければ強いほど、「『技術者倫理』のない奴は…」というポストは間違いなく現れるだろう。ただし、そういったポストが、本当に正しい理由から発せられているかは、少し怪しいと僕は思っている。

最初に一つだけはっきりさせておきたい。これから僕がする話は、法律の話でも、利用規約の話でもない。技術者倫理の話だ。

そして面倒なことに、「技術者倫理」という言葉には二つの側面がある。一つは、タイムラインで振り回される棍棒としての「倫理」。もう一つは、技術者が社会に対して負う、静かで重い約束としての倫理。この二つは同じ言葉を使っているが、中身はまるで違う。今日はその違いの話をしようと思う。

まず、棍棒のほうから片付けよう。


君を叩く人間には、だいたい三種類いる。

一番声が大きいのは「利用規約に違反してるからダメなんですー」という奴だ。こいつは何も考えていない。利用規約という文字列が存在し、それに違反しているという事実だけで、自分が正義の側に立てると思っている。利用規約がそもそも法律的に有効なのか、とか、利用規約に規定がない場面でどうなるのか、といったややこしい問題については黙ることで賢い人間を装ってるだけだ。そして、一番最初に石を投げるのはいつもこのタイプで、インターネットというのは考えなしの人間が一番速く発言できるようにできているから、こいつの声がタイムラインの主旋律になる。

次に来るのは「BANされても知らんぞ」という奴。こいつは少し賢い。倫理とか正義とか、そういう面倒な話に踏み込むのを意図的に避けている。彼が言っているのは純粋に実利的な警告で、要するに「スクレイピングみたいな脆弱な基盤に依存したシステムを作ると、ある日突然全部壊れるぞ」ということだ。正直に言えば、僕の判断基準もこっちに近い。公式のAPIがないものに依存したシステムは、動作する保証がない。だが、それは倫理の問題じゃなくて、ただの設計の問題だ。

そして三番目に、ほとんど表に出てこないが、一番まともな判断をしている奴がいる。こいつは対象によって態度を変える。Amazonが検索エンジンのクローラーに対して許している範囲の行動には目をつぶるが、robots.txtすら設定されていない個人サイトの絵を学習用にクロールするのはアウトだと考えたりする。つまり「力の非対称性」を見ている。巨大プラットフォームと個人の絵描きでは、データを取られることの意味がまるで違う。こいつの判断には、規約とも実利とも違う、ある種の勘のようなものが働いている。

皮肉なことに、この三番目の奴が一番「技術者倫理」に近い場所にいるのだが、声は一番小さいし、上手く論理を重ねないと言ってる意味が伝わらない。場合によっては、印象によって言うことをコロコロ変えてるだけの幼稚なガキだとさえ思われている。慎重さはインターネットでは愚鈍と見なされるからだ。


さておき、タイムラインで叩かれる様を見てると、叩いている側には確固たる理屈があるように見えるかもしれない。何しろ彼らはAI以前からシステムを作ってきたベテランだから、「技術者倫理」についても明確なイメージを持っているに違いない、と君は思うだろう。

まず、僕が君に伝えたいのはここだ。彼らは本当に「倫理的」なのか?

僕自身のことを正直に言おう。僕はスクレイピング機能のあるシステムを作ったことはない。依頼されても何か適当な理由をつけて断ってきた。でもそれは、倫理的な信念があるからじゃない。APIがないものに依存すると、ある日突然システムが壊れるからだ。
その恐怖が先にあって、結果として「たまたま倫理的に無難な振る舞い(スクレイピングが許される行為かそうでないかに関わらずしない)」をしているだけだ。おそらく多くの技術者がそうだと思う。倫理を意識して守っているんじゃなくて、工学的な合理性の副産物として、倫理的に無難に見える行動を取っている。BANされたくないから規約を守る。不安定な依存先が怖いからスクレイピングしない。だけど、それは倫理じゃない。ただの保身だ。

技術者コミュニティがどういう「倫理観」を持っているかについて、少し昔の話をさせてくれ。

2005年頃、「はまちちゃん」というハンドルネームのハッカーがいた。mixiのCSRF脆弱性を突いて、踏んだ人のプロフィールに勝手に「ぼくはまちちゃん!」と書き込ませる仕掛けをばらまいた。ユーザーの意図しない操作を強制するプログラムを、不特定多数にばらまいたのだ。

その時、Web系の技術者コミュニティがどう反応したか、君は知っているかい?

「けしからん」じゃなかったんだ。「天才かよ」だった。

「実害はなかった、ただの悪戯だ」という建前で、ほとんど誰も咎めなかった。法的にもグレーゾーンで、立件すらされていない。だが、ユーザーの意図しない操作を強制するプログラムをばらまくことが「倫理的」かと問われれば、答えは明らかだろう。

XSSやCSRFの脆弱性を見つけて突くことが、知的なゲームとして消費されていた時代だった。セキュリティホールを見つけること自体が一種の娯楽で、技術者たちはそれを明らかに「おもしろがって」いた。もちろん、当時から真剣にセキュリティ倫理に取り組んでいた人間はいた。IPAの脆弱性届出制度はまさにそういう人たちの努力で整備されたものだ。だが、コミュニティの空気を作っていたのは彼らではなかったし、はまちちゃんの行動を倫理的な問題として真剣に受け止めていた人間はごく少数派だった。

今は違う。脆弱性を見つけたハッカーがやるべきことは明確に決まっている。2026年の今、大手サイトではまちちゃんと同じことをやったら、少なくとも非難はされるだろう。

これは、あの愉快犯たちがすっかり成熟して倫理に目覚めた結果だろうか?僕は多分、違うと思っている。脆弱性を突く遊びが、オタクの知的ゲームではなく、マジもんの犯罪者の飯の種(あるいは守る側の飯の種)になったから、そういった力の誇示が幼稚に見えるようになっただけなんだと思っている。

つまりこういうことだ。技術者コミュニティの「倫理」の歴史を振り返ると、おもしろがる、飽きてやめる、安全圏から説教する、という三段階を経ている。どの段階にも、本物の倫理的自覚はない。あるのは、その時々の状況に対するリアクションだけだ。

そういう連中が、今、AIでスクレイパーを書いた君に向かって「技術者倫理がない」と言っている。自分も含めたお前ら技術者コミュニティの正義なんてものはその程度のものでしかない。


じゃあ、技術者倫理なんて嘘っぱちなのか? 先輩風を吹かせるための道具にすぎないのか?

そうじゃない。ここは大事なところだから、ちゃんと聞いてほしい。

技術者倫理というのは、「やったらBANされるからやめよう」とか「利用規約に書いてあるからダメ」とか、そういう話とは全然別のレイヤーにあるものなんだ。タイムラインで棍棒として振り回されている「倫理」とは、似ても似つかない。

医者のことを考えてみてくれ。医者が患者を殺さないのは、逮捕されるからじゃない。医学という「力」を社会から行使することを許されている代わりに、その力を悪用しません、と約束しているからだ。それは法律よりも前にある契約で、社会と専門家の間の信頼関係そのものだ。

技術者倫理も同じ構造をしている。僕たちはコンピューターを使って、普通の人には見えないものを見ることができるし、普通の人にはできないことができる。HTMLの裏側を覗けるし、APIを叩けるし、データベースの構造を推測できる。それは一種の「力」だ。技術者倫理というのは、その力を社会に対して不当に行使しません、という約束のことだ。BANされるから守るんじゃなくて、その約束があるから社会が僕たちに力の行使を許している。順序が逆なんだよ。

で、ここからが君の話だ。

君はプログラマじゃない。AIに頼んでスクレイパーを書いてもらった。それ自体は別に構わない。問題は、君がその「力」を手に入れた経路だ。

自動車に喩えるとわかりやすいかもしれない。免許を取るために教習所に通うと、車の運転技術だけじゃなく、交通法規や安全確認の方法を学ぶ。それは「この危険な機械を社会の中で使うためのルール」を叩き込まれるということだ。運転がうまくなることと、ルールを知ることは、本来セットになっている。

ところがAIは、免許なしで車のキーを渡してくれる。ClaudeCodeに「スクレイパー書いて」と頼めば、動くコードが出てくる。そのコードがどういう力を持っていて、相手のサーバーに何をしているのか、なぜそれが問題になりうるのか、サービス提供側がどういう論理で動いているのか。そういうことを知らないまま、エンジンだけが手に入る。

君に欠けているのは、そもそも倫理ではない。もっと手前の話だ。何しろ自分が何を動かしているのかを知らないんだ。無免許でアクセルを踏んでいるのと同じだ。そして、無免許の人間に交通倫理を説いても、あんまり意味がない。まずはそもそも車がどう動いていて、なぜ人を轢くのかを理解するのが先だ。


その事を理解した後にすることについて、僕の提案はこうだ。

君を叩いている連中のことは、あんまり気にしなくていい。彼らの多くは、自分がなぜ「倫理的」に振る舞っているのかを自覚していない。保身と実利と先輩風が混ざったものを「正義」と呼んでいるだけだ。かつてセキュリティホールをおもしろがって、犯罪者が来たら逃げて、今は安全な場所から石を投げている。

だが、技術者倫理そのものを舐めてかかるのは、やめたほうがいい。それは先輩風とは関係なく、力を持つ者が社会に対して負う、重い約束だ。君もAIを通じてその力を手にした以上、社会と約束をしなくてはならない。免許を取っていないことは、交通法規に従わなくていい理由にはならない。

技術者倫理の講義は、放送大学にある。別に放送大学じゃなくてもいいんだが、とにかく、誰かが体系的にまとめてくれたものを一度は読んでおいたほうがいいと僕は思う。タイムラインから投げられる手斧からは何も学べないが、教科書からは学べることがある。

君のスクレイパーを公開するかどうかは、その後で自分で決めればいい。と僕は思う。


嘘つきゾス

東京から来た業務委託の若者が、開口一番こう言った。

「大阪オフィスは元気がないっすねー」

私は返事に困った。元気がないというより、午前10時の静かなオフィスで各自が黙々と仕事をしているだけだったから、何と答えればいいのかわからなかった。

「つまんねーならこんなのつまんねーよ!って声出して仕事したらいいと思うんすよねー」

と彼は続けた。

その日の午後、彼は自分が客先でどんな提案をしてきたかを話してくれた。企画書は作らない、とWebディレクターの役回りの彼は言った。今日持っていったのは紙一枚で、そこには「大地」とだけ書いてあった。それがバシーンとハマった、ということだった。

私はしばらく「大地」という二文字を頭の中で転がした。こいつ薬でもやってんのか、と思った。


彼のような人間の類型が集まると、テンションだけで仕事するようになる。私は便宜上「ゾス系」と呼んでいる。正式な語彙かどうかは知らない。ただ職場に一人か二人は必ずいる、あのタイプの人間を指す言葉として、これ以上適切なものを持っていない。

テンションとノリで商談をまとめる。根拠のない自信で場を支配する。細かいことを気にせず突破する。そして不思議なことに、それで仕事が回る場面が確かに存在する——少なくとも、本人はそう信じている。

私はこういう人間が、生理的に苦手だ。嫌いというわけではない。有能だということも、ある程度は理解している。私のような鬱病気質の人間がまわりに暗いムードを漂わせるのと比べたら、例え無根拠でも明るく、前進するエネルギーを周りに振りまくほうが、はるかに有効だろう。だから、この嫌悪には嫉妬も混じっている。ただ、私個人としては、彼らと同じ空気を長時間吸っていると、何か根本的なところで居心地が悪くなる。たとえるなら、生き死にを考えているときに、隣でイッツ・ア・スモールワールドをエンドレスで流されているような感覚だ。そこには常に絶妙な「嘘っぽさ」が漂っている。

なぜ、嘘っぽいのか、少し考えてみる。

一つの仮説は、ゾス系の振る舞いが本質的にコートシップ行動だ、というものだ。孔雀が羽根を広げるのと同じ機能を、彼らはオフィスでやっている。「大地」と書いた紙一枚は、企画書ではなく羽根だ。正確さより、勢いの質と量が重要なのはそのためで、ディスプレイとして機能しさえすれば、内容は問題ではない、ということだ。

興味深いのは、彼らがある程度それを自覚していることだ。演じているとわかっていて、気にしない。これは欺瞞ではなく、ある種の割り切りだ。

そしてその割り切りが機能する文脈が、今の日本には確かにある。


バブル崩壊からおよそ30年、日本は構造的に負け続けている。製造業は空洞化し、ITでは周回遅れになり、給料は上がらず、人口は減り続けている。これだけ負け続けた時代に、テンションを上げて仕事をするというのは、冷静に考えると相当に奇妙なことだ。

私たちは根本的に誰からも必要とされていない。製造業は中国や東南アジアの国々に、金融は欧米やシンガポール、ルール作りはあの横暴な大統領親分にまかせてしまえばいい―――鬱病の私などは極端にそう考えてさえいる。私たちのやってることは全て無駄で、私たちの生とは、つまるところ慣性のようなもので、ひっくり返った虫が足をバタバタすることに近いのではないか、私の世界観とはそういうもので、その世界の中で元気な人間を見ると、嫌悪というより「信じられない」と思ってしまうのだった。

ゾス系が元気でいられるのは、この国の負けが見えていないからかもしれない。あるいは——見えていても、直視しないことを選んでいるのかもしれない。負けを直視しないことが、この国の組織を動かし続けるための、半ば集団的な合意になっていて、ゾス系はその誠実な体現者なのだ、という見方もできる。

だとすれば、イッツ・ア・スモールワールドが流れ続けるのは、偶然ではない。あの音楽は、止めてはいけないのだろう。


かつて、この世界にもその音楽から逃げられる場所があった。

インターネットの、特に2000年代までのテキスト中心の空間は、ゾス系のコートシップがほとんど無効化される特殊な場所だった。顔も声も体温もノリも関係なく、テキストと論理だけで殴り合える場所。テレビで羽根を広げていた人間が同じことをしようとすると、匿名の文章おじさんたちに論理で袋叩きにされた。居心地が悪い人間にとっては、数少ない楽園だった。

その楽園が失われたのは、インターネットがリアルの延長線になったからだけではない。問題は「数が全てになった」ことだ。テレビのスターは多数決で選ばれたわけではなかったが、ネットのインフルエンサーは明確に数で選ばれる。そうなると、ノリとテンションのほうが圧倒的に有利になる。

しかも楽園を乗っ取ったのは、ゾス系ですらなかった。ゾス系には少なくとも、演じているという自覚と、場合によっては問題解決能力が伴う。乗っ取ったのはその上澄みだけを掬ったような、コートシップのディスプレイだけが残って実体が空洞になった、「テンションの高い無」とでも言うべき、名前をつけるのも難しい存在たちだった。非モテの楽園は、無にすら負けたのである。


では、イッツ・ア・スモールワールドに乗れない人間は、一体何をしたいのか。

緩やかに滅ぶことを選ぶのが賢明かといえば、そうとも言えない。負けを直視したところで、何かが変わるわけではない。冷めた目で見続けることに、実利はない。

正直に言えば、沈没していく客船の中で「どうせダメだからここでピアノでも弾いてようぜ」と言っているのが私だ。それはそれで一つの態度ではあるが、本当に船が沈みかけているとき、頼りになるのはそういう人間ではない。わずかな希望を信じて救命ボートを探し続ける人間のほうが、少なくとも実際的だ。ゾス系がそうかどうかはわからないが、少なくとも私よりは船を沈めない可能性がある。

答えは出ない。ただ問いだけが残る。



大地の彼は、2、3ヶ月後には姿が見えなくなっていた。大地がバシーンとハマり続けたのかどうかは、私は知らない。おそらくそうではなかっただろう。

でも彼が消えたあと、私はふと考えた。

彼も私も、やっていることの本質は同じではないか。滅びいく世界で、何かにすがって、生存を継続しているだけだ。彼は「大地」にすがり、私はテキストと論理にすがっている。すがっているものが違うだけで、構造は同じだ。

イッツ・ア・スモールワールドは今日も流れている。私はその音楽が苦手で、乗ることができない。ただそれだけのことなのかもしれない。