megamouthの葬列

長い旅路の終わり

本屋の宗教

帰りの電車でドア横に立つ。幹線道路のヘッドライトが地平まで繋がっている。車は帰っていく。僕はただ見ている。

いつのまにか本が読めなくなっていた。

読めないのに本屋には行く。意味がわからないと思うけど、僕にもわからない。たぶん習慣だ。かつて本屋は安全地帯だった。安全地帯というのは、そこにいるだけで目的があるように見える場所のことだ。棚の前に立って深刻な顔をしていれば、「あの人は何か考えている」みたいな体裁が整う。実際は何も考えていない。文字が入ってこないから。

本屋に入ると、まず棚を見る。色とりどりの背表紙が無数に並んでいる。圧倒される。というより落胆が大きい。判決が速い。

「これは僕とは関係がない」
「これも関係がない」

読む前に諦めが来る。手に取る前に、もう終わっている。ページをめくる前に、「これも僕とは関係がない本だろう」と先回りして片づけてしまう。それが癖になっていた。

それでもどこかに「関係のある一冊」があるはずだと思っている。今の自分が最も求めている本、浮遊した魂が次々と収まっていくような気持ちになる本、そこにどんな事が書かれているか想像もつかないが、きっとある筈なのだと思う。安心の根拠は一度も確認されたことがないのに、無数に本があるだけで安心だけが先に発生する。便利な宗教みたいだ。

中学三年のとき、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。あれが僕の読書体験のピークだと思う。ピークが中3。自慢ではない。あの頃の僕は居心地が悪くて、常に苛立っていて、どこか違う場所を期待して、どこにも行き場がなかった。つまりだいたい今と同じだ。ただ、当時は本が効いた。文字が届いた。届いてしまったから、僕は「どこか違う場所」が本当に存在する気になった。今思うと、あれはまあ、手口が巧妙だった。

棚の前に立っていると、何かを達成した気分にもなる。実際は達成じゃなくて、可能性を温存しているだけだ。僕は昔から、この「温存」が異様に得意だった。この温存には名前がある。僕の中では、夢プロジェクトって呼んでいる。要するに「いつかやりたいこと」を心の中にしまっておく、というやつだ。ここで重要なのは「いつまでに」が無いことだ。期限が無いから、未完成が永遠に許される。未完成である限り「これからすごいことをやる人」という肩書きが維持できる。世界との対峙を先送りしながら、対峙している気分だけは保てる。便利すぎて、ちょっと倫理的にどうかと思うぐらいだ。

僕の夢プロジェクトは、だいたい編集の道具だった。新聞みたいなレイアウトをWebだけで実現する新聞メーカー。インターネット上にあるオーディオ・ルーパー。Amazonにあるまともな本だけを紹介するサイト。世界は雑すぎる。だから整えたい。整えれば居場所が生まれる気がする。きっとそんなことはないんだろうけど。

新聞メーカーは段組地獄だった。というより、段組以前に地獄だった。Webだけで新聞みたいなレイアウトを作ろうとすると、実装も大変だし、そもそもUIが初心者に扱えるものじゃなかった。僕が欲しかったのは「誰でも使える編集装置」だったはずなのに、気づいたら「僕しか使えない怪しい装置」になっていく。そして出来たものも普通に読みにくい。夢プロジェクトはだいたいそうなる。いつの間にか目的が、ユーザーのためではなく、自分の自尊心のために最適化される。

インターネット上にあるオーディオ・ルーパーは、もっとシンプルに著作権の問題がどうしようもなかった。ループという仕組みが悪いわけじゃない。悪いのは僕の脳内で、そこではインターネットが「なんでも切り貼りしていい素材集」になっていたことだ。世界と対峙しているつもりで、実は世界の法律を見ていなかった。対峙って、目を合わせることから始まるんだな、と今ならわかる。今なら、というのも便利な言葉だ。

Amazonにあるまともな本だけを紹介するサイトは、プロトタイプまで行った。ここがいちばん気まずい。僕は「まとも」とか言いながら、本の紹介文に著作権があるという事実を無視していた。まともなのは本で、僕ではない。世界を整える前に、自分の足元を整えろ、という話なんだろう。

夢プロジェクトは心の中の国債みたいなものでもある。今の自分が無価値でも、将来の自分が利息付きで返してくれるという証書。しかも償還日は未定。未定だからデフォルトしない。理屈の上では一生デフォルトしない。安心の供給が安定しすぎていて、逆に人生が回らない。国債だけが積み上がって、実体経済が死ぬ。笑える話だが、笑っている場合でもない。

本屋は、その国債の取引所だった。棚の前で「どこかに僕に関係のある文章がある」と思える。思えるだけで、少し息がしやすくなる。見つけたことはないのに、あるはずだけが残っていて、僕は棚の間を歩く。買わない。読まない。でも決済だけする。可能性だけを購入して、手ぶらで帰る。省エネで、持続可能で、そして何も生まない。まさに現代的だ。

そしてある時期から、その取引は秒で終わるようになった。棚を見た瞬間に「関係がない」と判決が確定する。読む前に諦めが来る。判決が早いのは賢くなったからじゃない。単に、傷つくまでの距離が短くなっただけだ。


だから今日も行った。

レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を、何度も読み返していた時期がある。表紙には誰かの電話番号が走り書きしてある。友人か、クラブミュージックつながりのオーガナイザーみたいな知り合いの番号だったと思う。残っている理由は単純で、その本を繰り返し読んでいたからだ。

番号は残る。用事は残らない。関係も残らない。残るのは、残す癖だけだ。僕はたぶん、連絡先を残したいんじゃなくて、「連絡しなくても関係が続く」という錯覚を残したい。錯覚にしてはずいぶん安上がりだ。鉛筆一本で買えるのだから。

まだ世界と対峙しているつもりだった頃、CGIプログラミングをしていた。perlはモジュールの読み込みで3req/sもこなせなくて、IE6とネットスケープナビゲーターのアイコンが画面の隅に並んでいた。いまなら骨董品として可愛いが、当時は普通に地獄だった。互換性の地獄というのは、技術の問題というより、性格の問題だと思う。人間が怒りっぽくなる。仕様に怒り、ブラウザに怒り、最終的に自分に怒る。いちばん手軽だからだ。

それでも僕は、世界と対峙しようとしていた。自分の力だけで金持ちになれる、みたいなことを信じていた。世界に対峙しているつもりで、実際にやっているのはIE6への土下座なのだ。一体僕は、何が出来るつもりで生きていたのだろうか。

たぶん今も、似たようなつもりで生きている。違うのは、いまは「出来るつもり」のほうが先に諦める、という点だ。昔は実装が諦めた。今は実装はAIがしてくれるから、諦めるのは僕だ。進歩だろうか。

音楽だけは、たまに届く。サブスクで聴く昔のテクノ。the orb。冬の曇り空。電車の窓。ヘッドライトのネックレス。文字は届かないのに、音は届く日がある。音には宛先が要らないのかもしれない。宛先が要らないものばかりが、生き延びる。逆に言うと、宛先が要るものはだいたい死ぬ。夢プロジェクトも、たぶんそうだ。

そういえば最近、夕方に港に行って青葉市子を聴いたら、なんだか良かった。よく晴れた日で、西にタンカーが見えた。巨大な鉄の塊が、何事もなかったみたいに海の上でゆっくり動いている。あれはどこに帰っていくんだろう。

タンカーには帰る場所がある。帰る場所というのは、たぶん現実だ。荷物を下ろす場所があり、次の荷物があり、次の航路がある。僕には本屋がある。年が開けて、本屋で安売りされていたカレンダーを買った。時間をちゃんと使える人間みたいな気分になった。予定は特にない。帰りの電車で、窓の外の幹線道路を見ながら、袋の中のカレンダーがガサガサ鳴った。ヘッドライトは相変わらずネックレスみたいに繋がっていて、地平のほうへ消えていく。袋の中では、安売りのカレンダーがまだ鳴っている。